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母はデイサービスもない日曜日、友人の結婚式とかで私の従姉妹の長男しんちゃんが福岡の方から実家に帰ってきていたので、家にきてくれました。
この子は本家の長女の子供で、私たち親戚一同にとって初めての子供だったため、みんなからかわいがられていました。私も一番仲良く面倒を見てもらっていた従姉妹の子供なので、まるで自分の子供か弟が生まれた様なうれしさで、熊本に遊びにいくのが楽しみでなりませんでした。 私にもよくなついて、ついて回って、本当によく遊びました。「えみねえちゃん」と私をよんで、スウェーデンにも遊びにきました。私の父にとっても初孫と同様の感覚だったのでしょう。とてもかわいがっており、しんちゃんはみんなにとって特別な存在でした。 母も大喜びで、とにかく早速父の見舞いにいこうということになって、しんちゃんの車で病院へ向かいました。 金曜日の危篤の父が嘘のように、目もしっかり開けてその目で私たちを追い、手もしっかり握ってくれました。 しんちゃんが来たこともよくわかったようで、再び涙ぐんでいました。しんちゃんも父の涙を何度か拭き取ってくれました。「おじちゃん、よかったよかった」というとぎゅっと手を握ったそうで、しんちゃんも喜んでくれました。 14時の面会も住ませてから母をタクシーで返し、私はやっと安心して、ダイエーに行き、行きつけの美容室で髪をカットしてもらいました。ダイエーから電車で18時の面会にいきました。 胸の水も随分減って、炎症も少しよくなったと医師から知らされました。 私は、とにかく本人が苦しくないようにしてあげてくださいと何度も頼みました。 ちょうど、ニッキィもフリープログラムをうまく滑走したそうで、ジュニア初年で、前回のウプサーラでのエリート戦、ニッキィにとっては今シーズン初めての試合は4位に終わりましたが、今回は見事優勝したそうです。 父にもそれを伝えました。 父が少しもちなおしてくれると、私もやっと買い物などできる気分になり、夕食の買い物を済ませて戻りました。 ほとんど眠れない夜を過ごして、朝、8時になったので、面会時間ではなかったけれどICUに向かいました。入り口の電話で父の様子を訊くと「もちこたえて今は意識が戻っているのでどうぞ」と言われました。
私は天にも昇る気分で神様にお礼を言いたい感じで父のベッドへ急ぎました。 父の手を握り、「よかったよかった」と言いました。 11時の面会時間に再びいくと、ちょうど本家の兄嫁、つまり私の叔母とその娘と息子、従兄弟の次男と父の姉の娘、つまり私の従姉妹も面会に来てくれていました。 そのときは8時よりももっともちなおして、目も開けちゃんと手も出していました。 私がスウェーデンに来る時も反対していた父、それを仲立ちして助けてくれた従姉妹、従姉妹が父に「おじちゃん、私まちがったことしたのかなあ」というと手を出していました。従姉妹が誰にでも厳しかった父に「おじちゃん、またいろいろしかってよ、元気にまたおこってよ。」というと、本当、私だってまた父にしかってもらいたいと思いました。間違ったことが大嫌いだった父は自分の子供だろうと私の従姉妹従兄弟たちだろうと、ひどいときは家の近所で滑り台から石を滑らせて遊んでいるわんぱくものたちでさえ叱りつける様な厳しい人でした。 それがこんなにか細くやせ細ってしゃべることさえできなくなってしまうなんて。。。 14時の面会には母の弟夫婦も来てくれました。 叔母の声かけにちゃんと反応を示し、目も開けてもちなおしてくれたので、私はどんなにほっとしたことか。。。やっとものが口を通っていく様な気がして美味しくお茶を飲むことができました。 夕方には母をつれに家に戻り、18時の面会にいきました。 母のこともわかるのか目を開け、手を握ったり、「あーあー」と声も出してくれました。 そして、また、父の目から涙が。。。 ちょうど、スウェーデンでは今シーズンは膝の具合が悪くてほとんど試合に出ることができなかったニッキィがエリートシリーズのストックホルムでの試合に出場していました。 ネディの話では、ショートがとてもよくできて何と1位にいるという報告もあったので、父にもそのことを伝えました。明日のフリーは応援してね、というと手でぎゅっと私の手を握りました。 あまりにうれしくて、母と待合室で時間をつぶし、19時30分の面会もして帰りました。 料理など作る気分にも慣れず、母と二人病院の食堂でうどんを食べてタクシーで帰りました。 それにしてもよかった。。。神様本当にありがとう。。。 いつものように母をデイサービスに見送り、11時の面会に行こうと準備しているとしばらくして、病院から電話がありました。「国立病院です。」と言われた時は、心臓が凍る様な気がしました。
意識がなく、すぐにでもくることができるかというのです。 私はすぐにみつぐ苑に電話をして母を待機させてもらい、迎えにいきました。叔父叔母にも電話をして病院に来てもらいました。 全く反応がありません。 医師が、駄目かと思ったが少し状態が良くなり、意識はないが小康状態だ等説明してくれました。 どちらにしても週末でもあるため、私は銀行に行き、少し現金を用意することにしました。 母は叔父たちが家に連れて帰ってくれました。母がアルツハイマーが手伝ってか、あまり危機感がない様なのでかえって助かります。 私が銀行などに行ったりしている間、本家の父の兄嫁が14時の面会に来てくれたそうですが、そのときも反応がなかったそうです。 私は18時の面会にいきました。 前日は涙をこぼしたじゃない、どうしちゃったの、と語りかけるけれど、手も出さないし、目も開けないし、ただただ苦しそうな人工呼吸器の音だけが響きます。 あちらこちらのベッドでもピーピーと器械が鳴っていて、看護士たちが走り回ったり、本当にドラマでも見ているのか、と錯覚するほどでした。 医師は小康状態で、何とも言えないと言います。 このまま、残ってくださいとも何とも言えないと言います。それが本当のことなのでしょうけれど、私は一体どうしたらよいのでしょう。 連絡があって30分以内には来ることができる、ということをお互いに確かめ、とにかく私は母もそのままだったので、家に戻りました。 叔父たちが母と一緒にいてくれて、私たちは夕食をとり、叔父が帰る時に私は病院に送ってもらうことにしました。 こんな時でも人間はお腹がすくのが何とも不思議でした。 母は元々一人暮らしになれているし、心配ないというので、連れて行っても疲れさせるだけなので、私一人で向かいました。 完全看護の集中治療室のため、家族の泊まるところなんてありません。でも、家族用の控え室があり、看護士さんが案内してくれたので、そこにとりあえず泊まることにしました。 その日は大きな部屋に一家族いました。私は奥の小さい部屋に座りました。売店で買ってきた雑誌も見る気にもなれません。 部屋が暑くて、売店の方へ行き、飲み物を買いにいったりしました。 戻ると先ほどまでいた家族はいなくなっていたので、私は大きい部屋に一人座りました。ソファに長くなっても眠れるはずがありません。 外で足音がするたびに、看護士が私を呼びにきたかと思ってドキッとしました。 暑くて暑くて空調で一番低い温度にしたのに、息苦しいほど暑い感じでした。でも、父はもっと辛いのだろうと思いました。。。 12月1日は父の母、つまり私の祖母の祥月命日でした。
私は私の母方の祖母の祥月命日に生まれています。夫は誕生日に父親を亡くしています。叔父の誕生日に叔父の叔父が亡くなりました。ニッキィは夫の叔父の祥月命日に生まれました。 何か、こういうことって家族の中でつながっている様な気がして、私はこの日、12月1日、ニッキィの誕生日の5日、など、ちょっと気になる日にちでした。 この日は母をみつぐ苑のデイサービスに見送ったすぐあとに佐賀に住む父の妹の長男が駆けつけてくれました。 このいとこは大学生の頃東京の大学に行っており、下宿先が私の家のすぐそばだったこともあって、よくうちに食事に来ていたりして、歳も同じなことも手伝い従兄弟の中ではとても話しやすい頼りになる存在です。 しかも、父が一番愛した末っ子の妹の長男なので、私の父も私が嫉妬するほどかわいがっていました。 お茶を飲んでほとんどすぐに出かけ11時の面会をしました。 前日より、少しよくなっているのか、手など少し暖かくなっていました。 無意識のうちに苦しいからか、人工呼吸器や、胸から水を出すための管などをとろうとするためか、手はガーゼのグローブの様なものをかぶせられ、ベッドに固定されているのが何ともいたたまれませんでした。 でも、看護士さんたちの話では、それだけ力が出てきた証拠であるということで、私たちが来ているので、ガーゼのグローブは外してくれました。 せっかく従兄弟が来てくれているのに、目はとうとう開けませんでした。 でも、従兄弟の声かけに反応して、手をだし、従兄弟が握るとちゃんと握り返したようでした。 従兄弟の父親は実は11月9日に亡くなっています。 私は、熊本に行くたびに血はつながっていなかったけれどこの叔父が好きで必ず電話をしていました。 叔母はあまり体調が良くなく電話で話すこともなかったのですが、叔父とはかなり長話をして楽しいひと時を過ごしていました。夏に日本へ帰った時も叔父と北京経由で来て大変だったこと、叔父が大連にいた時代のこと、いろいろな話をしました。 「絵美子にもあいたいなあ」と叔父は言っていました。今度ゆっくり会えるよっていって、とうとう会いにいくこともなかったのですが、まさかあの叔父が亡くなってしまうなんて。。。叔母は父の妹で、母同様に少し惚けが始まっているようで、私は叔父を亡くして叔母ががっくりしてしまうのではないかととても心配していたのに、惚けが助けになって、あまりがっくり来ていないということでした。 叔父は癌だったのですが、最後は父と同じ人工呼吸器をしていたそうです。 これは極新しい人工呼吸器でかなり性能が良いらしく、ちょっと前だと挿管しなくてはならない状態だったそうで、ほぼそれと同様の効力のある人工呼吸器だそうです。 佐賀の病院にはその装置がなく、福岡の病院から借りてきていたそうです。 父の入院した熊本の国立病院は改装されて間もなく設備もすばらしいものでした。 まるで、ドラマの中にいる様な感じでした。 叔父の場合、会話もできる状態だったので、その人工呼吸器がとても辛いものであることなど話していたそうです。「お願いだから、今度寝たらもう起こさないでください。」とか「その人工呼吸器だけは辛いのでつけないでください。」などと言っていたそうです。 かわいそうに父はそんなことも言えず、ただただ辛そうな息をして寝ています。時々「あーあー」と辛そうな声も出していました。 医師や看護士も説明してくれなかったその装置こと、数値の見方なども従兄弟が説明してくれました。 自分では呼吸ができないので、機会が酸素を送るだけでなく二酸化炭素を出すように工夫されて、無理矢理呼吸をさせられているようでした。 従兄弟と私のことがわかったのでしょうか。父は手を出してくれました。 私が子供のときつないでくれた父の手はすっかりむくんで私の知っている父の手では亡くなっていました。 肩はこれ以上細くなれないというほどやせ細っています。 集中治療室は重病人ばかりで面会も時間が決められて長くいることもできないので、従兄弟とその場を立ち去りました。 二人で久しぶりに中華を食べにいきました。 従兄弟も自分の父親を亡くしたばかりなのに、私のことを気遣ってくれて本当に力になりした。 私の祖母は私たちが生まれた年は忙しかったとよく話していました。末娘のところにこの従兄弟が2月に生まれ、そうこうしているうちに春になると私が、夏になると父のすぐ上の姉のところにもう一人の従兄弟が生まれ、九州と東京を行ったり来たりしていたそうです。 従兄弟が私を家まで送ってくれ、しばらくするとデイサービスから母が戻ってきました。 母も自分とは血がつながっていなかったけれどこの従兄弟はとてもかわいがっていたので、大喜びでした。 従兄弟は佐賀まで帰らなくてはならないので、分かれ、私と母は18時の面会にいきました。 状態はほとんど同じでしたが、私たちが話しかけていると父の目から涙がにじんできました。 父の涙を見たのは初めてかも知れません。 ティッシュで拭ってあげました。でも、またしばらくすると父の目から涙が。。。 私たちがいることがわかったのでしょうか。何を言いたかったのでしょうか。 夏には悠長にに会話という訳にはいかないまでも、父とちゃんと会話を交わすことができました。でも今はこの父の涙で、私は一体何がわかるのでしょう。。。
母がみつぐ苑のデイサービスに行ったあと母の一回り年下の弟、私が4歳の時から私の家で暮らしていた叔父なので、まるで一人っ子の私には歳の離れた兄の様な存在の叔父が私を迎えにきてみつぐ苑の父の荷物をとりにいくのを手伝ってくれました。
入院んをした時点で一時退所ということだそうです。 金曜日私が叔父から父が入院したという連絡をもらった日、呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたことなど説明を受けました。 どんなに辛かっただろうと思うと今更ながらかわいそうでなりません。 我慢強い人だったので、きっと我慢に我慢を重ねていたのでしょう。父が住んでいた「かき」の部屋からは荷物が出されており、父の着替えや身の回りのもの、そしてみつぐ苑に飾ってあった父が描いた油絵数点を持って帰りました。 父がよく子供たちを連れて行ってくれた温泉城の湯の隣のリンガーハットに叔父が連れて行ってくれました。 ここである夏食事しにいくと父の車に乗っかってきてしまった庭に住んでいたアオガエルがドアを開けたとたんに飛び出して、夫がそのままにしたら死んでしまうと、あわてて捕まえて車にいれ、家に連れ帰ったこともありました。そのアオガエルは長いこと庭の物干竿の穴に住んでいて毎年顔を出しているアオガエルの家族の一匹だったのです。 そんな思い出が走馬灯のようによみがえりました。父が元気な頃はよくここに子供たちをつれてきてくれていたなあ、と思いました。 そのあと私は14時の面会にいきました。 前日のあの元気な父とはうってかわって、反応はほとんどなく、手足も冷たくてとても心配になりました。 母はデイサービスから4時半すぎ頃にはもどるのですが、私は18時の面会もすることにして、少し買い物をしてどっとつかれたので、謙が気に入っていた喫茶店に入りました。一人でこんな喫茶店に入って抹茶オーレというものを注文し、心配でなんだか涙がぽろぽろとこぼれてしまいました。隣の席の外人男性がびっくりしていたようですが、変にああ、この人日本人じゃなくてよかった、と思いました。あれは一体どういう気持ちだったのでしょう。。。母にはもう一度だけ面会してから戻ると連絡をしました。 18時まで少し時間があったので、待合室で悲痛な感じで待っていると、私くらいの歳の三姉妹がお母さんの面会を待っていました。急な入院だったのか、あわてて面会に来た様な様子の方たちで、携帯の使い方などで姉妹で軽い言い争いをしているのが熊本弁で面白く感じ、心配で悲しかった私の心にちょっと暖かいものを感じました。また、こうして悲しみを分かち合える姉妹がいる人たちを本当にうらやましく思いました。 18時にもう一度面会にいきました。昼とは違って、ほんの少し反応がありました。少しだけ目を開けた様な開けないような。。。前日のあの様子は何だったのだろうと思うほど、状態が悪くなっていたので心配でしたが、少しだけ反応があったので、神様に祈るのみです。 主治医の先生や看護士さんたちはとてもよくしてくれているようでした。 でも、父がこんなに苦しんでいる様な感じで、人工呼吸器の音がとても苦しそうに響くので、先生が見回りに見えた時は「くるしいのですか?」 と訊きました。そんなこと元気な先生や私たちにわかるはずがないのに。 「とにかく本人が苦しくないようにしてあげてください。」と言いました。でも、それはどういうこと? 医師は今していることは延命治療ではなくこれはあくまで肺炎を起こしている治療だそうです。その治療のためにこの呼吸器をつけ、肺からほんの少しずつ水を吸い出し、そして水分と栄養分を補給しているということでした。 一体父はよくなるのだろうか。肺炎がよくなっても父のPSPという病気は治らないではないか。。。 今、少し治ったって、またこんなことの繰り返しで。。。と思うと不謹慎にも早く楽にさせてあげたい、と思ってしまいました。 ミミが亡くなった時は安定剤を打たれ、私たちと安らかなひとときを過ごし、最後に筋肉収縮剤を打たれ、本当に眠るように亡くなっていきました。 そんなこと父にしてもらおうとは思いませんでしたが、かといって、こんな苦しそうな呼吸器で飲まず食わずの状態で。。。見ているのが辛くてたまりませんでした。 私が時々日本に戻っても、何となくいつでも会えるという感じで、とうとう誰とも特に会わずに過ごしてしまうことが多かったのですが、今回は父が入院ということで、父の姉の息子が福岡から早速見舞いにきてくれました。
まずは私と母とで街に出て銀行へ行き、一部定期を解約したりしました。銀行関係はすべて父がしていたので、母は、ほとんど何もできないのです。銀行で従兄弟と待ち合わせました。 この従兄弟は私が一番大好きだった叔母の息子です。福岡大学にいたので、私たちが熊本へ遊びにいくと広い家、叔母一人で住んでいたから必ず、この叔母のところに泊まっていました。 夜遅くまでこの叔母と母と私の3人でテレビを見ながらいろいろな話をして、夜中になってテレビがしゃーしゃーと音を立てて放送が終わるまで話していました。私は子供だったのに、叔母と母の会話に一緒になって夜遅くまで起きていました。お墓参りに行く時はお嫁に出ていた叔母のお墓は本家の墓よりも大きいくらいだったので、よく叔母が「ここにはいるといいわよ。」なんて冗談で言っていたのですが、そんな叔母も早くも亡くなってしまい、従兄弟は早くに両親を亡くしてしまいました。 そんな思いをしたら、私なんて幸せだと思わなくてはなりません。 父と叔母は決して似ていた訳ではないのに、何故か私の従兄弟は私の父によく似ていました。 そして、今回待ち合わせたとき、向こうから歩いてくる従兄弟を見て本当にびっくりしました。歩き方から雰囲気から私の父にそっくりなのです。 まずは3人で鶴屋のレストランで食事をして14時の面会にいきました。 父は、私たちのことがよくわかったようで、目もしっかりと開け、手も出して従兄弟や母や私と交互に手を握り、「あーあー」と声も出して、うれしそうでした。顔も自分であちらを向いたりこちらを向いたりして、ベッドの両脇にいる私たちを交互に見ていました。 昨日より全然元気そうだ、と私は思い、とてもうれしい気分で家に帰りました。 タクシーで従兄弟も家に連れてきてゆっくり話しました。 このまま父が元気になる様なそんな嬉しい気持ちでいっぱいでした。人工呼吸器が少し苦しそうなのだけが気になりましたが、目もはっきりと開いて頭を右左に動かしていたので、本当にうれしく思いました。 母は、いつも通りデイサービスに行ってもらいました。父に会いにいかなくては、という強い気持ちもない様なので、助かりました。9時半頃迎えにくるので、それを見送り、叔父夫婦が私を迎えにきてくれました。
国立病院のICUは、面会時間が11時、14時、18時、19時と4回でしかも一度は30分以内と決められています。 はいる時も手を消毒し、マスクをかけ、内線の電話で名前を名乗り、面会の許可を受けてから中に入るのです。 中に入ると、テレビの救命のドラマを見ているかと思うほど、ドラマの中のようでした。 沢山のベッドに瀕死の病人がずらっと並んでいました。これからみんな元気になっていくのか、あの世へ旅立っていくのか、なんだか、変に冷静な私でした。 叔父夫婦に案内され、父のベッドのそばまで行きました。24番のベッドよ、と教えられても、24番のベッドにはあまりに小さい人が横になっているので、一瞬、それが私の頼りになる父とはわかりませんでした。 子供が生まれてから父のことは「じっちゃ」母のことは「ばっちゃ」とよんでいました。ネディがそのようにやっと言葉が出る頃呼び始めたのがそのままになってしまったのです。 私は父と母を「パパ」「ママ」とよんでいました。でも、考えても見たらじっちゃばっちゃと呼ぶようになった方がパパママとよんでいた時間より長くなっていたのでした。 私は「じっちゃ!」と声をかけました。元々細かった人ですが、もう本当に小さくなってしまった父がうっすらと目を開けました。 私のことがわかったのでしょうか。 ネディから預かってきた写真を見せて、ネディの手紙を耳元で読んであげました。 ちゃんと聞こえたのでしょうか。 父はもの凄い装備の人工呼吸器をつけられ、もの凄く苦しそうな息をしていました。 胸からは肺の水を少しずつとるという装置をつけられていました。 担当の医師も来て、いろいろと説明をしてくれました。 延命治療をしないでほしいという本人の署名された書類があるが、とにかく娘がくるからそれまではなんとかしてほしいという親戚の意向でこのような装置をつけているという説明もありました。 私は父が元気で若い頃から、人の世話になってまで動けなくなってまで、生きていたくはない、延命措置などしないでほしいと言っていたのを良く知っているので、父の気持ちを尊重して延命はしない方針に同意しました。 いつもは日本へ行くと見るもの見るもの欲しくなるほどショッピングが楽しかったのに、今は何を見ても目に入らず、とりあえず、母と夕食をとれるように出来合いのお弁当やらお惣菜やらを買って家に戻りました。 母は元気そうに夕方デイサービスから戻ってきました。 2011年の11月25日早朝、日本では既に夕方、珍しく母の弟から電話があり、あとで電話をしてくれというので、「父のこと?」と訊くと、そうだというので、心配していたら、すぐに母からも電話がありました。
母の弟は母のところから母がトイレに行っている間を見計らって電話をしてきたのでした。母は結構しっかりして、父が肺炎を起こし、急遽入院したというのです。そのすぐあとに叔父に代わってもらい、いろいろきくととにかく入所していたみつぐ苑で父が呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたので、入院させようとしたけれど、どうしても入院したくないと言っていたので、ちょうどデイサービスに行っていた母をよんで説得してもらおうとしたらしいのです。母が「今死なれては困るのよねえ。。。」というと、父はすぐに納得して国立病院に即入院ということになり、母の弟、私の叔父がすぐに来てくれて入院の手続きをとり、夕方までかかったということでした。 私は「私もそちらに行った方がよいのかなあ。。。」と、叔父に言うと叔父は「そのほうがよいと思うよ。」と言いました。 夏に日本に行っていた頃、医師がPSPでは、最後には自分で嚥下できなくなり、誤嚥性の肺炎を起こした時は覚悟をした方がよいと言われました。 嚥下できなくなると、栄養補給は胃に管を通すようになるけれど、父は入所する際に胃に管を通したり、気管に管を通したりなどは決してしてほしくないという書類にサインをしていました。元気な頃から自分が病気などで駄目になる時は延命措置は決してしないでほしい、と言っていたのを私は良く知っているので、もう、だめか、と思ってしまいました。 すぐにチケットを手配しましたが、一番早く行ける便でも翌日の夕方の便でした。 ニッキィのスケートもやっとこれからエリート戦なども出て、スウェーデン全国選手権を控えていたので、トレーナーのターニャにも連絡をしました。 夜にはターニャも「こんな時間に電話して申し訳ないけれど、ニッキィの練習のためには私が迎えにいったり送っていったりできるから遠慮なく言ってほしい。」とまで言ってくれました。 自分も両親を亡くした経験があるからわかるけれど、人生はまだまだ続いていくのだから、強く受け止めすぎないように、子供もそして家族もいて、人生がまだまだ続いていくのだから、とも言われました。 26日の夕方の飛行機でフランクフルト経由で成田に到着して福岡、そして福岡から高速バスで熊本まで行きました。 私がついたのは27日、もう夜遅くなってから。。。 母は意外に元気そうで安心しました。 父の病状を受け止められないのか、事の重大さがわからないのか。。。 母は、私が2010年の夏にイヴとニッキィとで日本に行った際、ひょんなことからもう何年も前に亡くなっていた母の叔母のお見舞いにしばらく行っていない、なんて言い出したので、おかしいと思ったのでした。 庭仕事のこともいつも父がストックホルムに来た際にすべて庭仕事をしてくれていたのに、このごろ来てくれないから庭や植木がすごいことになっている、夫のよく手伝いにきてくれた友達のドブリも亡くなったし、などと話していると、ドブリも亡くなったの?などと、良く知っているはずのことなのに、まるで初めて知った様な言い方。。。 そのころデイサービスに行っていた父の方が、「しっかりしろよ、何言っているの?」などと笑っているくらいでした。 私は、その夏、田んぼのある道で転んでしまい、傷がなかなか治らず化膿したので、父と母のかかりつけの医者に見てもらっていました。そのとき母の様子を医師に説明し、心配していることを言いました。 ちょうど私たちが日本へ行く直前に母は街に買い物に行った際、エスカレーターから落ちて脚のすねをかなり切り、救急車で救急病院に運ばれたのでした。そのとき、頭もうったらしく、レントゲンなども撮ったけれど異常はなかったのでした。 でも、医師が内出血をして脳を圧迫している場合、たまに記憶が喪失する場合があるけれど、その出血を取り除けば元通りになるから、CTスキャンをとってみましょう、ということで、CTスキャンをとってもらいました。 しかし、何の内出血も見つけることができませんでした。 そこで、MRIをすることになりました。 すると、まだ初期段階ではあるけれど明らかにアルツハイマーの脳の萎縮が見られることが診断されました。 それで、母も介護保険の認定を受けることにして、父が入所するから一人暮らしになるし、父に会いにいくということも含めて、と母に話して、母もデイサービスを受けることができるようにしたのでした。 母は至って元気で、普段通り明るく人との関わりもとてもよく、他人が見たら、全く正常な元気なおばあさんという感じです。でも、一緒に生活するとやはり、つい先ほどの記憶が途絶えているのがわかり、同じことを何度も訊いたり、同じものを何度も買ったり、という感じでした。 でも、それがゆえ、父の病状が大変な状態であることをきちんと理解できないのか、それもそれでよかったのか、という感じでした。
はじめは脳の収縮が見られるのでアルツハイマーだと診断された父でしたが、記憶がどうかすると私たちなどよりよほどしっかりしているので、おかしいなと思っていました。
あとで父の病気はPSP(進行性核上性麻痺)という10万人に数名というまれに見る病気だったことがわかりました。運動を司る脳の収縮が見られるために運動、および内蔵の運動機能が低下して、転倒しやすくなったり、うまくしゃべることができなくなったり、さらには誤嚥などが生じてくるという難病でした。 気位が高く、人の世話になることなどできない性格のまじめな父でしたから、あの当時の葛藤は相当なものだったのだろうと今にして思えば、気の毒でなりません。 転倒が多くなり、お風呂場から出てくることができなくなった時は細い父でしたが、さすがの母も助けるのがとても困難で、これでは心配だということでかかりつけの先生がケアマネージャーと相談して要介護の申請をしてくれました。 人に頼ることが嫌いで、人に頼られる様な人だったので、介護保険がもらえても果たしてデイサービスに通うようになってくれるだろうか、と私たちは心配しておりました。 ところが、とても喜んで第一日目が終わり、それからは週に3回デイサービスに通うようになったので、私たちはびっくりすると同時に母もゆっくりする時間ができたし、入浴を家出しなくて住むようになったのが何よりの助けでした。 毎年3ヶ月スウェーデンに来ていた父と母でした。どうかすると冬も夏も来たりしていたのですが、2006年仁木て、一緒にブルガリアに行ったのが父のヨーロッパ訪問の最後になってしまいました。 ブルガリアには3つマンションがあるのですが、その一つは父と母がいつでも使ってよいと夫が言って二人専用にしてあげたのに、結局は一夏しか使わずに終わってしまいました。 その年は、先代のゴールデンのミミともよく散歩をしていましたが、ゆっくりゆっくり歩いていたのを思い出すとあの頃から病気は始まっていたのかもしれません。 2007年の夏にはネディと謙は東京に行っており、その間1週間熊本にやってきました。私とイヴとニッキィは熊本へ行きましたが、そのときも今思えば出不精になっており、お祭りなども一緒に行こうともしませんでした。 きっとあの頃から身体も辛くなっていたのでしょう。 2008年には父もこちらには来ないというので、私たちはブルガリアに行きました。ネディだけが秋に熊本に行きました。そのときネディとぼした祭りなどに行ったり、映画を見に行ったりしたというので本当にびっくりしました。 そしてその年父がかわいがっていたミミちゃんも亡くなってしまったのでした。 2009年の始めには母が風邪をこじらせ肺炎を起こし、ほとんど死にかけていて私は急遽熊本に帰ったのでしたが、そのときの父を思い出すと、私の知っている父ではなくなっていた感じがして本当にびっくりする矢ら悲しくなるやらで、一人でお墓参りに行きながらお墓の前でわんわん泣いてしまったのを思い出します。 あの頃の父は自分でも身体のいうことがうまくきかなくなっている自分にどう対処してよいかわからず、きっともの凄い葛藤のなかにいたことだろうと思います。 母のお葬式かと覚悟していったけれどなんとか回復してくれて、本当によかったのですが、その頃から両親がすっかり歳をとってしまったのを自覚せざるを得なくなりました。 そして、毎年避暑をかねてきていた両親もこちらに来る元気がなくなったのか、私たちが日本へ行くようになりました。 そのころから父のデイサービスも始まりよく2010年に熊本に行った時はすっかりデイサービスに慣れていた父でした。転倒も多くなったので、何度びっくりしたことか知れませんが、イヴとニッキィは父にとっては自分が世話をしてあげる小さい孫と言う気持ちがあるのか、イヴもすっかり大きくなっているのに、イヴの手を借りたりしようとせず、その辺がやはり気位の高い人だ、と思いました。 秋になると父の転倒が頻度を増してきて、母一人ではとても大変な状況になってきて、少しずつショートステイというサービスを受けるようになりました。 母が一人になって心配でしたが、思ったより元気に過ごしていたし、何よりも父が家で転倒したりする心配が亡くなったのが何よりでした。 秋休みには謙を連れて2週間でしたが、熊本へ行きました。 すぐに父を迎えにいきました。 謙を見た時の父の喜んだ顔は今でも忘れられません。 父にとって初めての男の子で自分の名前をとった謙には特別の感情もあったでしょうし、大人になっている謙には心を開いて私や母には決して助けを求めなかったのに、謙には腕を借り、ベッドから起きるのも転倒した時に起こしてもらうにも、またトイレに行くにもベッド脇においてあるトイレに移動するにも謙の助けを借りてくれました。 謙も元々心の優しい子なので、それはよくしてくれました。私や母ができないことを彼がちゃんとしてくれたので、私は謙をどんなに頼もしく思ったことか。。。それは父にしても同様だったと思います。 私たちが熊本に行くと必ず行く近所の養鱒場の料亭に行きました。 そのとき初めておじいさんと孫が晩酌しました。 大酒飲みではなかったけれどお酒を嗜むのが好きな父に似て謙もアルコールには強いようで、二人楽しそうに飲んでいました。男の子が欲しかった父は、本当にうれしかっただろうと思います。 それが最初で最後の話が孫との晩酌となってしまいました。 そして、デイサービスのみつぐ苑で入所できるようになったので、11月から入所をすることになりました。 それも不思議なように父が承知して、入所する日も私や謙や母と一緒に家を出て、まるでどこかへでかけるがごとく、極自然に家を出て、そして2度と父の愛した父が建てた沢山の父の植木のある花園の家に戻ることはなかったのです。 翌2011年の夏にはぜひ父を家に戻してあげたくて、ほかの子は足手まといになるだけだろうと思って我慢してもらい謙と私だけで熊本に行きました。 でも、そのころの父の様子を一目見ただけで、家での生活は全く不可能だということがわかり、誰も父に戻ろうとも言わなかったし、また、父もそのことがよくわかっていて、「家に戻りたい」とは言わなかったのだと思います。 でもたどたどしくも私たちが「会いにきてくれるのが一番うれしい」「せっかく来てくれたのに何もしてあげられなくて申し訳ない」などと言っていました。 謙がパソコンを持っていき、昔のビデオを見せてあげると、それこそ20数年前にまだネディが赤ん坊の頃ストックホルムの島の別荘で数家族集まってザリガニパーティーをしている時、みんなで酔っぱらってそれぞれが歌を歌ったりして大騒ぎしているビデオなどうれしそうに見て歌の上手だった父が酔って「君が代」などを歌っているところなど2度も見ながら一緒に歌っていました。 もう一度、家に戻してあげたかったけれど、一度戻ったらよけい辛くなったかもしれないと思って、私もどうしてよいかわからない感じでした。 母は「よほど居心地がよいのか、帰りたいって言わないのよ。」など言っていましたが、私は父が自分の病状を知っていて家での生活はたとえ1日でもかなり困難であることをよく理解して帰りたいと言わないのだということがよくわかりました。 自分でできるだけ食事もとるようにしていたようですが、謙に手伝ってもらったりして車椅子も押してもらって、子供が生まれたとき父がどの子も私の従兄弟たちも含めて沐浴させ寝かしつけて遊ばせていたのに、今はその孫たちが父の世話をするのか。。。と思いました。 謙は私より一足先にスウェーデンに帰ったので、果たして私の手を借りるかと心配していましたが、謙がいないので、私にも車椅子を押させたり、靴を脱いだりはいたり、また食後手などをぬれタオルで福野を手伝わせてくれました。父は手が汚れているのがとても嫌いな人で、手が汚れるからといってあまりオレンジやぶどうなど食べるのが嫌だったくらいだったので、少しでも手がべたべたしているのが嫌な人だったのです。 ああ、でも私はこんな年になっても両親がいたし、4人の子供にも恵まれ、毎年両親も来てくれ、幸せだったと思わなくてはならないかもしれません。私の両親は今の私の歳にはもう、自分たちの両親はいなかったのですから。。。また、我が子も2歳で失っていたのですから。。。 これが2011年の夏でした。 そして11月25日に父が誤嚥性の肺炎になり、急遽入院したという知らせがあり、私はすぐに飛行機のチケットをとり日本へ向かいました。 新しい年を迎えて、もう雛祭りもおわりました。
こんなに、長い間書かなかったのは忙しかったばかりではありません。 この日記をつけ始めたのは、遠く日本にいる両親が、すきなときに、こちらの様子を垣間見る事が出来るようにと思って始めたのでした。 それなのに、その父は、12月14日この世を去っていきました。 パソコンなんて扱えない母が一人で見ることも出来ないこの日記をつける気分になれませんでした。 父が亡くなってから、不思議と父が、もっと傍にいる気がして、悲しく思わなかったのに、こうして書き始めると涙が込み上げて来るのは、どうしてだろう。 でも、子供たちにも祖父の最後を後々知っていてもらいたいので少しずつ書いていこうと思います。 あっという間に秋休みも終わり、今日からまた仕事や学校が始まりました。
今朝はちょっと起きるのが辛い感じでした。 秋休みは子供たちもそれぞれに行動していたため、私は月曜に仕事がありましたが、そのあとはニッキィの送り迎えもなしで、火曜日、水曜日はそれはそれはゆっくり自由に過ごしました。それこそ、顔をプルンと洗って、乳液をつけただけで、ノーメイクで家でのんびり、まったり、デレーッと過ごしました。日本のドラマを見たり、ちょっと掃除や洗濯もしたり、外には犬の散歩に行くだけ。買い物さえ行かずにデレーッと過ごしました。 でも、二日目にはなんだか、それも飽きてきてしまい、木曜日は何という予定が合った訳ではないのですが、朝からきちんと化粧をして、ちょっとキリッと過ごしてみました。 金曜日は近所のショッピングセンターで秋休みの間、日本週間という特集をやっていて、友達もその催し物にでていたので、別の友達と待ち合わせて見に行きました。可愛い日本のロリータ特集というので、可愛い少女たちがまるでおとぎ話からでてきたように着飾ってのファッションショーでした。 そのあと久しぶりあった友人とは美味しいイタリアンを食べて、日本の放射能の被害の話から、惚けの話に至るまで沢山おしゃべりをしました。 ニッキィも合宿から戻り、イヴもサーラというダーラナ地方の街から戻り、そして日曜日にはパリに行っていた謙が戻ってきて、その代わりにパパがジュネーヴに発ち、家の中は入れ替わり立ち替わりという感じです。 おかしなことにパリに行った謙たちは、フランクフルト経由で行き、ジュネーヴに行ったパパはパリ経由で行ったのです。直行便がないということなのに、なぜ、謙たちはパパの使うパリ経由の便に乗れなかったのか、と考えると不思議です。 私はというと、何がいらつくのか分けわからず、すべてのことにイライラして困りものです。更年期障害かな、と密かに思っていますが、最近は痴呆症もでてきているのかと不安になることも多々あります。 たった今しようと思って部屋に入ると、はて、なぜこの部屋に来たか、とわからなくなり、たった今持っていた車の鍵なのに、何かをとりに戻った拍子に何処においたかわからなくなり、人の名字がわかるのに、名前がわからなかったり、名前や顔は浮かぶのに、名字がわからなくなったり、携帯電話はいつも何処にあるか、自分に電話をしてみて何処でなっているか聞いて、見つけるという始末。 こんなことを友人に話すと、結構みんなも同じような経験があるようで、ちょっとだけ安心したり。。。 健康第一。。。つくづくそう思います。 10月末の日曜日の夜中にこちらは夏時間から冬時間となり、日本との時差が7時間だったのが、8時間になりました。つまり、1時間よけいに眠ることができるようになった訳ですが、身体の方は全くそんなこと感じもせず、普通通りに過ごした感じでした。
先週はニッキィのトレーナーのターニャがかなり風邪がひどくて1週間以上のお休みでした。ニッキィたちは自主トレーニングをしていましたが、ビールスのため何も薬がなく、咳止めをもらっただけということで、時間が解決するしかないのです。我が家でも、イヴが熱っぽくて学校を1日休んだりしたので、心配しました。私も先週はのどがちょっと痛いと言うか気になって、一日は頭ももの凄く痛くてこれはヤバいかな、と思っていたのですが、念力で直しました。この念力というのがすごくて、私は、日本でガンガンに働いていた頃よく使っていた方法です。 本当に念力で「今は風邪などひどくなってはいられない」と念じながら、ショウガをおろしたものを少々と蜂蜜を紅茶で溶かして飲んだり、葛根湯やら、何やらいろいろ生薬と言われるような、風邪によいというもの、ビタミンC、またはそれを含む柑橘類などをやたらと沢山とって、しっかり睡眠を取るのです。 すると本当に念力で風邪が吹っ飛んでいくのです。 私はコンサートなど大仕事がある時にこの風邪っぽい症状がでたりすると、この念力療法を使うのですが、ちょっと油断していると大仕事のあとにどかーんとひどい風邪をぶり返してしまうので注意が必要です。 でも、今回は秋休みというのがあって、私も火曜日から仕事が休みで、この休みは誰にも邪魔されないようにゆっくり自分だけの時間を作ってまったり、だらーんと過ごすことにしました。 見ていなかった日本のドラマを見たり、メールを書いたり、楽器を弾いたり、その合間に掃除洗濯も疲れない程度にして、散歩も行ったりして過ごしています。 子供たちも大きくなって、ニッキィはいつも通り、スケートの合宿にリンショーピングまで行きました。いつもは大きな選手に連れて行ってもらっているのに、今回は何とニッキィが隊長(?)で小さい選手を連れて行ったのでなんだか変な感じです。ターニャも無事にリンショーピングに行っている様子。。。よい練習ができるとよいのですが。 イヴは友達の家に泊まったり、ちょっとだけ戻ってきてシャワーを浴びたり、食事をしたりして今日は同じ学年のヴァイオリンのアンサンブルで一緒のヨーハンの運転で、サーラというダーラナ地方の友人の別荘に楽器を持って出かけました。 謙は昨日からうちに泊まり、今朝早くマルティンとパリに4泊5日の旅に出かけていきました。 ネディはスケートのトレーナーの仕事もあるし大学もあるしで、家にいますが、ほとんど友達と出かけて家はホテルのようなものです。 こんなゆっくりしたのも久しぶりですが、なんだかそれでもあっという間に日が暮れてしまい、ちょっと焦りがでてきました。 今夜は何を食べようかしら。昨日はとっても大変な思いをして栗をむいて栗ごはんにしたのですが、いま一つ栗がおいしくなかったので、あんなに大変な思いをした割りには、とがっかりしてしまいました。 母の栗ごはんは美味しかったけれど、こんな大変な思いをして栗をむいてくれていたのかとつくづく思いました。
フィギュアスケート界では国内ではエリートシリーズも始まり、国外ではグランプリやジュニアグランプリも始まって、シーズン真っ盛りになってきているというのに、今年も我がニッキィは昨年と同じく膝の不調ですべてを棒に振っています。昨年は結構、私的には焦っていたのですが、今年はなんだか、なるようにしかならない、健康が第一っていう感じで、ゆっくり過ごしています。
膝や鼠蹊部などの不調を抱えながら無理している選手もいるようですが、長い目でみて、将来のためにとここはちょっと我慢の時期です。 あれこれインターネットでスケーターの膝の事など調べたりもしましたが、問題のある選手も少なくないようで。。。まあ、ニッキィの場合は転倒などして生じた怪我とは違うので、時期を待つしかないかと。。。 とにかく今まで背も低くてちびっ子のニッキィがこの2年あまりでグンと急に背が伸びたのが第一の原因だそうで、骨や筋肉の成長に対して筋の成長が間に合わず、そこへ沢山の練習が重なると負担がかかり、炎症を起こしてしまうというのが膝の不調の仕組みのようです。 日本やほかの国々ではどうなのかわかりませんが、ここ、スウェーデンでは医師とは別の専門家がいて、ニッキィも3人の専門家に見ていただいています。 一人はソルトレークのオリンピックにチームと参加してそこでカナダのボブスレーの選手と知り合ってお嫁さんにしたって言う、家もすぐ近くの人。彼はとても丁寧に身体の仕組みから説明してくれて、昨年の全国選手権の前に急に背中が痛くなった時も背中の仕組みから説明してくれて、そのための体操、マッサージなどして、一発でニッキィの顔色が明るくなってよい結果を残すことができました。 また、もう一人はバレエやフィギュアスケーターの専門の人で、そこには電気治療の特別な器械も備わっていて、針治療などと一緒に治療をしてくれます。 もう一人はスケート協会の方です。 さて、膝の調子も少しずつよくなり、ジャンプの練習も少しずつ始めたら、また膝に痛みが戻ってきました。私にはきちんと説明をしてくれないのですが、どうも今までのとは違うようです。トレーナーのターニャはだいたい分かっていたようでしたが、念のために、専門家のところへ行きました。するとやっぱり今までとは別のものだとすぐわかったようで、治療も別のもので、何やら二日間は全く安静にしておくという事で、金曜日からそろそろ練習を始めました。土曜日は練習がないので、昨日から友人のところへ泊まりにいき思いっきり楽しんできたようです。いつもは練習があって、友達とも一緒にいられない事が多いので、これも大切なことだと思います。 切り傷、擦り傷なら目で見てわかるけれど、本当に見えないものだけに母親としては不安になります。どうして専門家はこの痛みはこういう訳、あの痛みはああいう訳で、とわかるのでしょう。不思議です。 まあ、とにかく早く元気になっていつも通りの練習ができるようになり、試合にもでられるようになってもらいたいと願うのみです。 トレーナーのターニャはニッキィのトレーニング友達のノーヴィスの13と15の選手を連れて、エリート戦に行っております。そこではほかのクラブの選手の面倒も頼まれて見ているようですが、一人はノーヴィスの男の子です。彼はクリストッフェルのクラブに移ってからグンとのびた選手で、2年ほど膝の痛みに悩まされていたようですが、今では3回転をバンバン飛べるようになったとお母さんが話していらっしゃいました。 ニッキィ、抜かされるぞ。。。とは言っても、スウェーデンの選手のレベルが上がっていくのは嬉しいことです。クリストッフェルのトレーナーはチームも持っているからもの凄く忙しい方だそうで、大抵の試合にはついて来れないようです。 コルネリアちゃんは、今回のエリート戦も2位とだんとつ差をつけての優勝です。 だいぶ冷えてきたストックホルムです。今日は石狩鍋もどきをしようっと。 9月にはいってぐっと寒くなっていたストックホルムですが、このごろやたらとよい天気が続き、暖かい日も続いています。今日はミオはシャワーを浴び、爪も切って、ちょっとだけですが、毛も切りそろえました。
実はイヴがドレッドヘアーをし始めて、まだ完全にすべての髪をしたのではありませんが、ちょっと見ると何とふわふわの毛でミオのミミの下あたりも自然にドレッドになっているではありませんか! なぜてあげていた時、はじめは何かおできでもできたのかとびっくり仰天したのですが、何と毛の固まりになっていただけでした。 謙がドレッドヘアーは不潔になりがちで変な小さな虫の宿になったりもすると電話で言っていたので、早くイヴがあの髪を切ってくれる事を願っています。。。 ニッキィは、高校生になって、ニッキィのトレーニングに合わせた特別のよい時間割を学校が組んでくれたので、本当に助かります。 このごろは練習時間も十分にとれ、あとは昨年と同じ膝の具合が良くなって、フル練習ができるようになるのを待つのみとなりました。今年もせっかくのジュニアグランプリを棒に振ってしまうこととなってしまいました。 でも、健康が第一ですから。。。 トレーナーやスケート教会が慎重にしてくれるのが何より助かります。 父と母は相変わらずの様子。母には毎日電話していますが、父の洗濯物などが大変とは言いつつも結構このようなことが生活の励みになっているのではないかと思います。 パリに住む友人がブルガリアに来ていたようですが、そこで具合悪くなり、入院ということになりました。治療は自宅のあるパリでしたいと、フランスに戻っていって、その後どうなったかと連絡してみたら奥さんが癌だと診断されて15日目に亡くなってしまったと言っていたという事でした。。。なんと! そして今日はお葬式の案内の手紙が我が家に届きました。 ご冥福をお祈りします。 それにしても人の人生、人の寿命、人の運命なんて、本当にわかったものではありません。 今日一日を大切に生きていかなければ、もしかして明日なんてないかもしれません。順番通りに逝くとも限りません。 毎日せかせかと忙しく生活していたのですが、なんでこんなに忙しがらなくてはならないのか、と考え、全くゆとりのない生活から、のんびりちょっとゆとりを持った生活に、と思い、編み物を始めました。
実は、私は、その昔、ボーイフレンドのお母さんが編み物が上手で手編みのセーターなどを着ていたのに変にライバル意識をもってしまい、私も編み物くらいできるようにならなくちゃ、と日本ヴォーグ社の編み物教室に通い始めたことがありました。かぎ針編みをほんの少し、母や家庭科で習ってマフラーと手袋くらいしか編んだ事のなかった私でしたが、ちゃんと基礎から習うともう、最後には講師の資格さえも取ったくらい本格的な編み物を習いました。結局編み物教室を卒業する前にボーイフレンドとの恋ははかなく終わってしまい、そのお母さんと競い合う事もないままになってしまったのでしたが、おかげで、たいていのものを編むことができるようになっていました。 自分の子供ができたら沢山編んであげようと思っていたのに、ちくちくすると言ってあまり喜んできてもらえなかったので、ほんの数枚しか編まずに今日まできてしまったのでした。 でも、考えてみたら、私は受験がある訳でも宿題がある訳でもありません。いったい何をしているからこんなに忙しいのだろうと考え、考え方を改めて、ゆっくり生活するようにしようと思い、まずはスーパーでウール70パーセントという毛糸をひと玉購入してみました。 日本から持ってきていた編み棒セットを引っぱりだし、毛糸がガーンジー糸に少し似ていたので、ガーンジーの模様図を見つけ出し、とりあえずゲージをとってみました。10センチ四方のゲージを編んでいたら、私が編み物をしているのを見たのが初めてのニッキィやイヴがいったいママ何を編んでいるの、と不思議がっていました。 そして編み始めたのがニッキィかイヴかに使ってもらえそうなガーンジー模様のカーディガンです。 昨日はニッキィがヴァーレンテューナという車で20分くらいのちょっと遠いスケート場で練習だったので、家に帰るほどではないため、いつもは買い物したり、ちょっと見学したりして待っているのですが、編み物を持って出かけました。 車の中がぽかぽかしていたので、後部座席に移って編み始めました。 するとあまりぽかぽか気持ちよいので、何と1時間以上も居眠りをしてしまいました。 そばを通った人は編み物を持って車の中で寝ているおばさんを発見してさぞ、笑った事でしょう。 ちょうどスケート場の中の喫茶部もあく時間になったので、編み物も持っていきました。すると知ったスケートママがいたので、おしゃべりしながらの編み物になり、何度も間違えてほどいたり編んだり。。。 ガーンジー模様は主に表編みと裏編みの構成で模様になっているので、ちょっと間違えると大変なことになってしまいます。 うまくいきそうだったので、スケートの帰りに5玉買い足して帰りました。帰るとイヴの高校の友達が3人きていたので慌てて食事の支度をして、夜は再び編み物です。 イヴの髪がベートーヴェンのように長くのびてくせ毛なので、イヴはドレッドヘアーにしたいと言っており、とうとう友達がそれを死に泊まりがけでやってきたのです。 私はカーディガンを編み、イヴたちはイヴの髪をドレッドに編んで我が家は編み物のオンパレードでした。 イヴの髪も結構大変らしく、下のほう一列くらいしかできず、あとはぐちゃぐちゃにまとめてお団子にして帽子をかぶって学校やアンサンブルに行っておりました。 私も今日は仕事が午後だったので、、ゆったりと素敵な音楽を聴きながら、まず編み物から始めスケート場でも編みました。 裾から編み始めもうすぐで脇の下まで行きそうです。 果たしてイヴのドレッドと私のカーディガンとどちらが先に編み上がるでしょうか。 これができたら、もっとよい毛糸を探すぞ! 誰か、ストックホルム近辺でよい素敵な毛糸を売っている店を知っている人は教えてください。なんだかあまり素敵な毛糸を見かけないのです。日本には本当にいろいろな種類の素敵な毛糸が沢山売られておりましたが、今はどうなのでしょう。。。 先週はお客様が日本からかわりばんこに来ていたのに、せっかくの美しいストックホルムをご案内することができないほど雨が降っており、残念でした。
でも、このごろはちょっと太陽もでて、今日など何と20度近くにまでなり、仕事のあと、同僚のお宅へ伺い沢山実っているリンゴ狩りをさせていただいて、外でコーヒーをいただきました。今日の同僚はイヴのヴァイオリンの先生でもあります。 早速帰ってから、いただいてきたリンゴでアップルケーキを作りました。インターネットでいろいろなレシピを見たにもかかわらず、結局私風の独自のアップルケーキを作りました。 ちょうど、イヴが今日はヴァイオリンのレッスンがあるため、いただいたリンゴでどんなものができたかをお見せしようと思っていたのに、イヴは自分だけさっさと食べて、持っていくのなんて嫌だよ、と言って出かけていってしまいました。持たせるのによいようにと今日のアップルケーキはマフィン型に大きめに切ったリンゴをたっぷり入れて、その中に卵5つ、バター100−150gくらいかな、それに砂糖をうーん、大きなティーカップ1杯くらい、粉をその倍くらい入れて、バニラエッセンスとベーキングパウダー、そして、柔らかさを見ながら牛乳を少々。 その生地をリンゴのはいったマフィン型に入れて、上からシナモンと砂糖を振りかけてオーブンで20分くらい焼いてみました。 なかなか良い感じの出来でした。リンゴは櫛形のものを二切れ入れたのと、それをさらに二つに割って四切れにしたものと作ってみましたが、四切れにした方が美味しい感じでした。 生地が余ったので、プラムの種を取ってやはり四切れくらいにしたものを入れて、それは電子レンジで4分くらいチンしてみました。 これはちょっとした蒸しパンの雰囲気でまあまあ、それも面白いかなと。。。 思いがけずいただいたリンゴで久しぶりのお菓子作りでした。 今日はニッキィも18時からスケートの練習という事でネディの運転で出かけていきました。 さて、夕食は豚ヒレのクリーム煮とピラフの付け合わせです。
便利な世の中になったものです。私が子供の頃は(というより、つい一昔くらい前までは)、日記というと日記帳に綴ったものでしたし、ペンフレンドというのがいると、切手を貼ってポストに投函して、郵便屋さんが運んでくれる手紙を楽しみにしたものでした。
ところが今は、インターネットで日記が書ける、調べものができる、ペンフレンドはメル友とか言って瞬時に意見交換ができてしまうという世界。電話もインターネットでビデオ会話ができてしまうからうっかりお風呂上がりに電話なんてできません。だから私は本当の電話を主に使っているのですが。。。 その電話だってこのごろは携帯が主で、私が両親と住んでいる頃は長話をしていると、「もう、いい加減にしなさい」と書かれたメモを母が持ってきて電話している私の目の前においていったものでした。 テレビだって何処の家出もチャンネル争いというのがあり、テレビを2台、3台と持っている家庭はあまりなかったし、今はテレビも各部屋にあるだけでなく、インターネットでパソコンの前でそれぞれが好きなものを見ているような時代になってしまいました。なんだか味気ない感じです。 久しぶりにテレビの前で家族と一緒に見ると、やっぱりああでもないこうでもないといいながら見る方が楽しいと思います。 こちらスウェーデンではFacebookというのがとても流行していて、私も数年前友人を助けるためのスローガンを掲げたグループに参加して人数を増やすのに協力してほしい、と言われFacebookを始めたのがきっかけで、あまりアクティヴにはしておりませんが、数ヶ月前に私が中学校のとき英語の勉強のために文通をしていたドイツに住む人から連絡がありました。はじめは誰だろうと思ったのですが、よくよく見ると彼女の旧姓も書いてあったので、「あっ」とびっくりして早速返事を書き、今ではメル友になって、数十年の音信不通の期間を隔て、再び文通が始まったのでした。一つ違っているのは、少女の頃はかわいい便せんを買ってきたり、ちょこっと何かを同封したり、クリスマスや誕生日にお互いにプレゼントを贈ったりしましたが、今はどんな字を書いているのかも互いにわかる事もないパソコンの世界です。 それからもう一つ、私の小学校のクラスでは卒業してからずっと毎年クラス会をしています。私も東京に住んでいた当初は参加していましたが、もう、参加する機会もなく、それでも連絡をくださる幹事の方や仕事でこちらに来たりするクラスメートとは細々ながら連絡し合っていました。 一人、勉強もスポーツも音楽も何もかも抜群にできるクラスメートがいました。幼稚園の頃から一緒だった近所の人だったのですが、その人は頭が良すぎて、そういう人たちの通う学校へと進学していき、全く住む世界が違ってしまい、それ以後はほとんどあう事も連絡を取り合う事もなく数十年が過ぎてしまっておりました。 私は、全く目立たない、ごくごく普通の子供でしたから、クラスだけでなくクラス以外の学校中の人気者のその人には、私以外の沢山の少女たちが幼い恋心を抱いていたので、私が好きになろうなんて思ったこともありませんでした。 でも、ある日、友達のその人への気持ちを助けてあげようと私たちが通っていた日曜学校の何か催し物があったとき、私が近所に住んでいて話しやすかったこともあって、誘ってあげたのでした。 ところが、私が友達の恋のキューピットになるはずだったのに、その人に誘った事を大変喜んでいただき、何と、その人が私の事が好きだった、という事がわかって、びっくり仰天、ということが起きてしまいました。 その後も、お互いに学校が違ってしまったのでしたが、私は地元のごく普通の学校へ行き、ごく普通の塾で楽しく過ごし、(当時の塾には進学塾と私のように楽しんでみんなで勉強するような塾とがあったのです。)頭の良いその人と、お互いの塾でもらってきた問題を見せ合ったり、私がわからないところを教えてもらったりしました。 とは言っても勉強があまり好きではなかった私ですから、それは、少しありがた迷惑みたいな感じがあったのですが、その勉強にもれなくついてきた「文通」(交換日記みたいなもの)が、魅力でした。 私は一人娘でしたが、両親の友人の子供に男の子が多かったり、近所の母の友人たちも男の子を持っている方が多かった事なども手伝ってか、我が家には結構いろいろな男の子が出入りしていました。だから、交換日記や問題集を私に渡しにその人が来ても、全く問題がなく、ちょうどその人もピアノを習っていて、アメリカの私が大好きだったピアニストが日本に来るとわかった時は即座にそのチケットを買ってもらい、その人にも気楽に一緒に行こうと誘ってしまったのです。そのピアニスト、チャイコフスキーコンクールで見事第1位になった当時、ソビエト連邦とアメリカ合衆国の冷戦の中の出来事は当時かなりな話題になったそうですが、ヴァン クライバーンときくとほんのり甘酸っぱい小さな恋の思いがよみがえってきます。 ところが、まだまだ若い少年少女が夜出かけるという事が大変な騒ぎになったその人の家庭では、絶対にコンサートにいってはいけないということになったそうで、私は一人でピアノを聴きにいったのでした。 そして特にこのベートーヴェンのピアノ協奏曲の5番が好きで好きでたまらなくクライバーンの弾くLP(当時CDなどというのはなかったのです。)をすり切れるのではないかというほど何度も何度も聴いてうっとりしていました。こんなに美しくキラキラした音で弾く人がいるなんて、と幼心に感動し、こんな人のお嫁さんになれるなら何もいらない、と、思うほどでした。 そんなこんなで、コンサートにご一緒できなかった彼とは学校も違って、音信不通になってしまったのでした。その方と今になって連絡を取り合うことができ、昔々の小さな恋の物語の交換日記がメールで再現されるようになったのです。 とはいってもお互い全く別の世界に住んでおり、環境も場所も何もかも違って、一生会う事もないのでしょうけれど、このインターネットのおかげで、それでも連絡が取れるという事は何とすばらしい事でしょうか。 今、大河物語を楽しみに見ていますが、あの頃の人たちはこんな世界があるなんて、想像もできなかったと思います。 ちょっと古い話題ですが、ニッキィがシーズンの最後にあった、エリートシリーズのファイナルに出場したときの事を少し。。。
実は昨シーズンはじめに、膝を痛めて、初めてのジュニアグランプリも、国内のエリートシリーズも全部ミスってしまいました。ちょうど夏休み明け、合宿に行き、練習が始まるとほとんど同時くらいに膝が痛くなり、それはそれは心配しました。なんとかなおったかと思うと今度は風邪を引いたり、爪を痛めたり、顔面火傷をしたりと、不幸続きでしたが、なんとか国内選手権には出場させていただき、優勝という良い結果をだし、2月にはヨーロッパの青少年のオリンピックにもスウェーデン代表で出場させていただけるというよい経験をすることができました。 元々エリートシリーズは出場回数が満たなくて、ポイントも集めることができずにいたのでファイナルには出場できないと思っていたところ、オリンピックのポイントなども含め、ぎりぎり出場できるようになりました。 オリンピックではジュニアのクラスで出場し、その練習のため、ストックホルムトロフィーという国際大会でもジュニアのクラスで出場しましたが、このエリートシリーズは少年の部の最後を飾る良い滑走となりました。 スケート協会のホームページでもお褒めの言葉をいただき、親ばかではありますが、本当によい滑走だったと思います。 シーズンのポイントで滑走順が決まっているので、ショートは第1滑走でしたが良い結果を出して、フリーでは最後に滑走しパーソナルベストの得点で優勝することができました。 そして、グローベンで開催されたストックホルムアイスでは、プレショーに出演させていただき、休憩の後ではホッケーとバンディーとフィギュアスケーターの競争があり、それにも出演させていただきました。 また、ニッキィと同じトレーナーでニッキィと同じく少年の部のナショナルチャンピョンになったかわいいスケーターと一緒にペアスケートもどきを数カ所のアイスショーで滑走させていただきました。 このように、始まりは様々な故障でシーズンスタートを遅れてしまったのですが、最終的には良い結果を出すことができました。 そして、今年の夏の合宿も有意義に過ごして3週間の夏休みを取った後、私も日本へ行っている間のほんの少しの間にびっくりしたくらい背が伸びており、案の定、昨年と全く同様に夏休み明けの合宿で膝が痛くなってしまいました。 でも、今回は初めてではないのと、原因がよくわかっていたので、いろいろな治療や体操等々。。。ナショナルチームの強化合宿やジュニアグランプリはミスってしまいましたが、来週くらいからジャンプの練習も加えてよいという許可もでて。。。。。ところが今度は鼠蹊部が痛いと言い始め。。。明日また看てもらいにいくことになっています。やれやれ。。。まるで爆弾を抱えているような気分です。 こちらストックホルムはずいぶん秋も深まり、朝晩冷えるようになってきたので、とうとう我慢ができずに暖房を入れました。とは言っても昼間は結構暖かく、天気がよい今日などはぽかぽかとうれしくなります。
私の友人の中にはまだ海で泳いでいる元気な方もいますが、私には到底考えられない事です。海に入ったのはいつが最後だったかしら。。。子供が小さいころは毎年のようにブルガリアの黒海で1週間は海の生活をしていましたが、海は遠浅で水温は25度くらいあって本当に快適でした。 最後に海に入ったのは確かトルコに行った3年ほど前になるでしょうか。。。あれ、いつトルコに行ったのでしたっけ。なんだかこのごろ記憶が飛んでしまうというか、私は、アルツハイマーか痴呆症ではないかとちょっと不安になることがあります。 さてさて、仕事も始まり、今年度も3つの仕事場でピアノを弾きますが、新しいピアノを購入してもらいなんだかうれしいスタートでした。電子ピアノではありますが、まあまあよしとしなくてはと思います。予算の関係上、私の希望ばかり聞いてもらうわけにはいかないものの、まあまあの希望通りのピアノを買ってもらいました。 本当は本当のピアノがよいのですが、私たちが使っていた本当のピアノのある部屋をどうしても使うことができなくなったためです。 このごろの電子ピアノは結構よくできていて、音もまあまあだし、何しろピアノタッチなので、昔の電子ピアノより本当によくなってきたと思います。 夏に実家に戻ったとき、私が弾いていたピアノを弾いてみました。ずっと調律をしていないので、音が狂っている部分もあるのですが、なんだかとっても懐かしいタッチに子供の頃を思い出しました。 昔使っていた楽譜も開いてみると、懐かしい今は亡き先生の注意書きなどがあり、あの当時にいろいろと注意された言葉などが走馬灯のようによみがえってきたのにはびっくりしました。 大学時代の先生の注意書きを見ると、あの大学のレッスン室の雰囲気がそのまま思い出されました。 すっかり忘れていた先生方の注意書きなのに、こんなによく覚えているものかとびっくりしました。 ピアノの伴奏者になりたいと思っていた子供の頃を思い出し、日本ではままさんコーラスの伴奏くらいしかやることができず、ピアノ教師をしていましたが、こんなスウェーデンに来て、子供を育てながらのピアノ教師は少し困難だったので、言葉のハンディもあまりなく、昼間働ける仕事を、と思っていたら、何と伴奏の仕事をするようになって、結果的には自分の子供の頃の夢がかなったのか、と改めて思いました。 さあ、明日もがんばって伴奏してこよう! 三日坊主という言葉があるけれど、私のこの日記、結構続いていたのに、何と何とこーんなに長い間ログインさえもせずに過ごしていました。
今はもう仕事に行かなくてはならないけれど、またこれから少しずつでも綴っていこうと思います。 思えば、ひな祭りのあと、遅いストックホルムでも桜が満開の桜祭りが市内であったり、4月には高校のクラス会をパリで行うという、何ともリッチな気分になり懐かしい友人たちと楽しいひと時を過ごせたり、ニッキィがエリートシリーズのファイナルで優勝して、スケート協会にはよい記事を書いていただいたり、そして、年度末のコンサートやらなにやらで忙しく過ごしあっという間に夏休みを迎え、ニッキィの合宿の送り迎えで便乗ドライブをしたり、今年の夏は子供たちはそれぞれの忙しいスケジュールでそれぞれが行動し、私はというと長男の謙と北京1泊経由で日本へ行きました。 謙は2週間でかえり、私は約1ヶ月滞在し、戻ってくるとこちらでの生活も慌ただしく進んでおり、そのペースに乗せられながらあっという間に新学期も迎えてしまいました。 とにかく今は仕事に行く前ミオの散歩をさせないと! 帰ってからゆっくり時間はないと思うけれど、今後、また日記をここにも書いていこうと決心! まずは何か一言でも始めないといつまでたってもログインさえしない気がして。。。
今日、ニッキィがスケートをしている間、買い物に行ったら、桃の花や猫柳を売っていたので、ついつい桃の花を買ってしまいました。
桃の花?よくよく考えたら、プラムの花って書いてあります。まあ、いいか。。。 今はスポーツ週間で学校や私の仕事も休み。この時期はいつも家族でスキーに行っていたのですが、去年も今年も行っていません。 子供たちが大きくなってしまったのやら、ニッキィのスケートが忙しいのやらで、ゆったりとした1週間を過ごしています。 このころになると外はまだまだ雪が沢山で真冬の感じが残っているのですが、陽もだんだん長くなりつつあり、私の花粉症を感じるので、確実に春がやってきていることを感じます。 変なところが似るもので、謙もアレルギーがこのごろひどいようです。 謙は先日、マルティンとロンドンへ遊びに行って来ました。友人のエンマのところへ、マンチェスターに行っているペーテルや、数人で泊まることになっていたら、翌日だったか、エンマの家主が来て、友達を止めてはいけないといって追い出され、マルティンと謙は5つ星の高級ホテルに泊まりにいき、他の友人たちはお金がなくて別の友人のところへ転がり込んだといっていました。 私なんて、いつもどこでホテル予約したらいくら安いかな、と必死になっているのに。。。 さて、私はというと、4月に高校時代の友人たちとEUの陣と名づけたクラス会をパリで開催することになり、パリへの旅へと向かいます。 ヨーロッパに住んでいる日本人でパリに行ったことのない人はたぶん私くらいだと思いますが、本当に初めてのパリです。父が一番行きたいところで、とうとう実現しなかったところだったので、父の分も沢山見てこなくちゃと思っています。 父とは2月16日のたんじょうびに久しぶりに電話で話しました。思ったより元気そうで本当に安心しました。 2月は母も誕生日、謙も誕生日で我が家は3つも誕生日が重なります。 父と母がこちらに来ている冬は次々とケーキ作りをし、謙の誕生日ころにはケーキも食べ飽きたような感じでした。 今年の謙の誕生日は当日謙が夜の洋裁学校に行く日だったので、翌日来ました。 私はオードブルにスモークサーモン、メインに仔牛のヒレ肉とアントレコのステーキ、故障ソース添えと温野菜、そして最後のケーキは美味しそうな苺を見つけたので、デコレーションケーキにしました。苺もスライスして全体に薔薇の花びらのように飾り付けました。 謙がロンドンに立つ前日、荷物などもあるので、謙の洋裁学校に迎えに行き、そのまま、謙の一人暮らしのアパートへ行きました。なかなかちゃんと生活をしているようで、安心しました。洗濯物をもらって帰り、久しぶり洗濯をしてあげました。久しぶり謙は我が家に泊まり、翌日早朝、飛行場までマルティンと一緒に送ってあげたのでした。 話がどんどん前後しますが、2月12日にはニッキィがヨーロッパ青少年の冬季オリンピックに出場のため、スウェーデン選手団としてチェコへ向かいました。バンクーバーオリンピックのときの制服と同じものを頂き、黄色と水色のスウェーデンの選手団は元気に旅立っていきました。 すべて選手の制服を着ることになっていて、ジーンズだけニッキィのサイズがなかったので自分のジーンズを着ても良いことになっていましたが、リュックも旅行かばんもすべておそろいです。 私たちは翌日チェコに向かいました。 オリンピックの話はまたこの次に。。。 今日は、なんとお雛様ではありませんか!
ずっと日記を書いていなかったので、自分でもびっくりしてしまいました。 忙しかったのはもちろんですが、書かなくなると、何からはじめてよいやらわからず、そんなことの繰り返しでとうとう、日にちだけが通り過ぎていってしまうという悪循環! お雛様はとうとう出してあげることもなく、今日も終わりになりそうです。でも、出してあげなくちゃ! と思い、遅ればせながら今から出してきます。 やっぱり、出して見るとなんと可愛いお内裏様とお雛様! 続きはまたあとで! 去年も大変な雪と寒さでしたが、今年はもっと大雪です。雪かきしてもその雪をどこに捨てたらよいかわからないほど!
ラッセル車が通った後は、家の前のパーキングのところまでその雪がこんもりと山になってしまい、それを今度はどけなくては車がでることさえできません。 昨日は私が夜中に1度、昼間にもう1度雪かきをしたにもかかわらず、まだまだ粉雪が降り続いて謙が車を持って帰った時はパーキングすることができませんでした。 道はどんどん狭くなるし。。。 何度雪かきをしたことか!せめてパーキングの前の雪をどけて、道も少し広くなるように捨てる雪も工夫して体中が筋肉痛になりました。10日からまたピアノを弾かなくてはならないのに、特に右腕や手首が痛くてちょっとした角度ではティーカップも持てない感じです。 とはいっても雪かきをした後のすがすがしい気持ちはなんだろう。。。ミオの散歩から戻るとミオを木につないで雪かきをせっせとする私。。。かなりな運動量で、そのあとは体中がほっほっと暑くなり、汗が全身から噴き出してきます。これはかなり良いダイエット方法かもしれません。 今日も車がちゃんと出て、戻った時もパーキングできるように工夫して雪かきをしましたが、我が家には二つパーキングがあるのですが、さすがに1つしかできませんでした。もうひとつのところは子供たちにまかせましょう。。。まず、そこにパーキングしてある雪に埋もれた2台の車を雪の中から救い出して車の上の雪を下に落としてからその周りを雪かきして、パーキングの前に積もったラッセル車の残骸をどけなくてはなりません。。。。気の遠くなるような話。 だから、現在我が家で使える車は3台目だけ。。。3台あるのに1台しか使えない不自由な生活をしています。 そうだ、あす、この大雪の写真でも移しておかなくちゃと思いました。 そんな大雪で飛行機も飛ぶのかと心配していましたが、今朝はもう雪も止んで、ターニャを迎えに行ってニッキィと二人、飛行場へ送って行きました。 ターニャがいつも北の地域のエリート合同合宿に呼ばれて新年合宿に行くのですが、ニッキィとダンネとミッケもそこへ連れて行ってもらうのです。昨年はニッキィたちはバスで8時間9時間も行きましたが、今回は飛行機にしました。 いつもながら無事着いたのか、元気なのか、全く連絡のないニッキィです。まあ、連絡があるときはいつもろくなことがないのですが。。。(前にも書いたけれど、珍しく電話してきたので、どうしたのかと思うと、スケート入れるリュックにバナナが入れっぱなしで、腐って真黒になってジュクジュクしていた、というではありませんか。観戦に行ってい見るとスーパーの袋にスケート靴を入れてホテルとスケート場を行ったり来たりしていたのはわが息子ニッキィでした。) イヴは数学のテストが新学期早々あるというのに、教科書を学校のロッカーに忘れたので、友達に借りに行って今コピーをしています。これからその教科書を返しに行くのに送ってくれというので、連れていく親バカな私。。。 明けましておめでとうございます。
![]() 珍しく家族全員の写真です。クリスマスカード年賀状用に撮影したのですが、ここにいたるまで何枚うつしたでしょう!実はその出来損ないの写真を見るほうが余程我が家の様子がわかって笑えるのですが、ここではこの1枚しか紹介しません。 それぞれに大きくなって、ミオちゃんも大きくなって外は大雪なので、それはそれは大はしゃぎで散歩の始まりは歩調を合わせるまで時間がかかります。。。 今年もみんなが健康で楽しいことが沢山起こりますようにと祈りました。 ゆっくりとウィーンの新年コンサートをテレビで聴きました。 スウェーデンの大晦日は12時とともにあちらこちらで打ち上げ花火が上がり、可愛そうにミオちゃんは心臓がバクバクして、それはそれは怖がっていました。1時過ぎてあたりが静かになったころ、だいぶ冷え込みも和らいでいたので(マイナス2度ほどしかありません)、私はミオと散歩に出かけました。 なんだかこのごろ夜中の散歩を楽しんでいますが、なかなか良いものです。 細かい雪が沢山降っていたので、家の前の道やパーキングのところの雪かきをしたら、もう汗びっしょりになりました。 ところが、今日起きてみるとまたまた雪は積もっており、マルティンのところでお正月を迎えた謙が車を返しにやってきましたが、パーキングに入れるところどころか、その前の段階、つまり道のところで雪にうずもってしまい、大変でした。 この雪、どうなるのでしょう。。。雪かきをした雪をどこに捨てるか困ってしまいます。 まあ、車に乗らないなら真っ白でふわふわでとても素敵です。 きょうは、家族全員の散歩はなしでした。。。 謙も戻り、イヴも戻り、全員で早めの夕食というか遅い昼というか。。。謙は相当飲んだらしくきょうはワインを断りました。 ネディは早くもいつものスケート仲間と映画を見に出かけました。 明日からニッキィはエンシャンスヴィーク(発音難しくてカタカナで正しくかけません。)へスケート合宿に行きます。飛行機が飛ぶかしら。。。
きょうはミオちゃんと散歩をした後、少しだけ暖かくなったため(といってもマイナス6度程度)大雪の雪が少し崩れて歩きにくい場所や車のタイヤがはまってしまいそうなところがあるので、せめて家の前やパーキングの出口だけでもきちんとしようと雪かきしたら、もう思いっきりくたびれて、その上にミオちゃんをシャンプーしてちょっとだけ無駄毛のカットなどもしたらもう、立ち直れないくらいくたびれてしまったので、予定していた料理など明日にしようと、まったりしていました。そして、何を思い始めたのか、この日記の整理、つまりカテゴリー別に分けようなんて思いついてしまって、まだ途中ではありますが、あんなことこんあこと会ったなあ、なんて思いながら以前の日記を読んだりして、その上に他のインターネットを見始めたらなんだか次々と見てしまって、あらあらという間にこんな時間!オタクとはこんな生活をしているのか?!
あちらこちらクリックして色々なインターネットを読んでいたら、日本には本当にフィギュアスケートに詳しい人が多いのがわかってびっくりしました。 しかも、こんなフィギュアスケートの程度の低いスウェーデンの選手をよく応援してくれている人たちが結構多いのにもびっくりしました。 しかも私が知らないことや、つい最近のFacebookのゴシップまで、まあ詳しく出ているので、びっくり! この数日レポート書きで大忙しのネディがやっと提出できるものを完成させて、明日の大晦日、あ、もう今日なんだ!の準備やら予定やら、考えていたので、日本にはスウェーデンの選手のファンが多いのね、クリストッフェルもアードリアンもかなり多いのにはびっくりしたし、しかもサーシャや、中にはジミーなどのことも結構記事になっていたりするからびっくりしたっていうと、そりゃあ、日本は人口が半端じゃないから色々な人が居て詳しい人もいるのよ、といっていました。 日本のファンの人たちは、実はアードリアンはかなりいたずら坊主だったり、ジミーもニッキィやらジュニアの選手と一緒になってふざけあったり、なんていうことまで知っているのかな、と思いました。 まあ、でも、みんなどの選手も良い人たちで、エイリートシリーズやスウェーデン選手権やら、SKF杯やら、あるいは合宿などで一緒になると年齢男女関係なく和気藹々と楽しそうにしているのはほほえましいと思います。Facebookでも盛んに連絡を取り合っているようです。 だから、あんなスキャンダルも起きてしまったのでしょうけれど、友達同士ではないと見ることができないはずのFacebookno記事が新聞に数分のうちにすっぱ抜かれたというのはいったいどういうことだろうと思います。 私は、そちらのほうが余程、問題ではないかと思います。 それにしても、スケート連盟の対応もサーシャの対応も良かったなと思いました。 それに、日本でもこの記事はもう話題になっていたようで、びっくりしました。どこからこんなに早く情報が行くのだろうかと思うと、この世の中、インターネットの世界はかなり恐ろしいものがあるかなと思います。 スウェーデンのフィギュアスケートのファンが日本に沢山いてくれるのは嬉しいことです。 頑張れ!スウェーデン! 私はニッキィが故障続きで試合に出られなかったので、今回、久々のみんなの演技を見せてもらいましたが、前シーズンよりみんながそれぞれに上達しているのにはびっくりしました。 ジュニアの試合もかなり面白いものでした。久しぶりにバッティルも出場したし、お医者さんだかになるっていっていたけど、いつまでもスケート続けて欲しい!リンショーピングのダンネもよく滑れていたし、私好みのイケメン選手、しかも、話していてもいつも感じよくて楽しいし! ニッキィたちと仲良しのマティーアスも新しいプログラムも衣装も素敵でした。 オンドレイは私が大好きな選手です。今回は一足早くシニアで出場でしたが、ニッキィもむかーしむかし、地域別のチーム対抗のSKF杯かなにかでオンドレイと戦ったことがあったっけ。もちろんオンドレイが1位で小さかったニッキィは3位か何かだったと思うけれど、あの時は年上の選手を抜いて3位になれたのはすごかったなといまさらながら思います。 また、前シーズンは出なかったニッキィの対戦相手だったマルクスが復帰してよかったと思いました。とりあえずのニッキィの目標はマルクスかなと思います。頑張れニッキィ! 今回の選手権でストックホルムのダンネが好滑走でき、しかも銀を取れたのは本当に嬉しいことでした。ダンネもニッキィ同様、シーズンスタートで敗血症になってしまって試合に出られなかったから、余計嬉しかったです。まだ、持久力が保てないといっていたけれど、それは徐々にトレーニングしてもらうとして、3回転3回転を見事に決めたのは本当にターニャのおかげだと思いました。 ニッキィが初めて選手権に出場したとき、ミッケとダンネのお母さんがターニャに指導を御願いしたのでしたが、本当にそれは彼らにとっても良かったし、また、ニッキィにとっても良い見本があって、良かったなと思います。 ニッキィの前のプログラムを振付けたアイスダンスのプロチャンピョンだったゴーシャが「ニッキィはターニャのような良いトレーナーに出会えて本当に良かったよ、私も子供のときそんなトレーナーに出会えていたらシングルでいけたかもしれないがジャンプが得意ではなかったからアイスダンスに移行したのだ。」とおっしゃっていたのを思い出します。 それにしてもゴーシャの振り付け、スケーティングそしてインターネットの動画で見る彼のアイスダンスはすごく素敵! アードリアンもエフゲニーと別れてしまったけれど、大丈夫なのかなって思いましたが。。。 病気だったエフゲニーもイヴァンチェンコやヨーゼフを指導して、楽しそうに3人で一緒に座って他の選手の観戦をしたりしている様子を見て、安心しました。 いつだったか、エフゲニーとは、ターニャやマルメのラースロやらとお茶をご一緒したとき、なんて楽しい人なんだろうって思ったのでした。 ネディに「でもまさかニッキィやジョンオーロフ君やグスタフ君やローニアちゃんが半分日本人とは知らないだろうね」、と話すと、「そりゃあ、名前が日本っぽくないから知らないでしょう」、と話したものでした。 いつかこの子達が日本かどこかに試合に行けるような日が来ないとも限りません。そのとき、びっくりされるかなと思うとちょっと楽しみな感じです。特にニッキィは日本語でしゃべれるから。。。そんな夢のような日が来ればよいけれど、日本はちょっと遠すぎるかも。。。 ヨーロッパでは、名前からはニッキィが少しブルガリア人だって事はわかるでしょう。 それにしても、スウェーデン選手権とは言っても、考えて見たら、生粋のスウェーデン人より、結構あちらこちらの移民がかなり多かったなあと思います。 スウェーデンだけでなく、ヨーロッパやアメリカでは外国の血が入った選手が多くなるのは仕方のないことかもしれません。 それに、優れたトレーナーはほとんど外国人! おっと、こんなところで油を売っている暇はない。早く寝て、大晦日の準備をしなくちゃ! おやすみなさい! 昨晩、30日になって間もなく、ミオと真夜中の散歩へ出かけました。インターネットで色々見ていたら、あちらこちらのページに移って、なんだか終わりがないくらい色々な記事や動画や色々な知らない人のブログやらたどり着いて、こういうのをオタクって言うのかなと思ってしまいました。あっという間に時間が過ぎていきました。あまりに疲れたので、散歩に出たわけです。
マイナス20度が続いていたストックホルムでしたが、寒さが和らぎ雪もところどころ固まっていたのが崩れて歩きにくい場所もありました。 でも、だーれもいない外、ミオも落ち着いていて、帰ってからはパーキングの前の雪をもう少しきれいに雪かきさえしてしまいました。丑三つ時。。。ネディは友達のお婆さんちで本当に合った話を基にした悪魔などの出てくる怖い話をビデオで見たので、眠れないといっていましたが、私はそんな怖いものを見ていないので、外の静けさがなんとも嬉しくていつまでも外に痛いような気分になっていました。 母には昼と夜が逆さにならないように、早く寝なくては、と毎日のように電話で言っているのですが、あっという間に明け方になってしまうという意味が初めてわかったような気がしました。 遅ればせながら、昨晩、こどもからDVDを借りてハリーポッターの6番を見ました。なんと、なんと。。。ダンブルドさん、亡くなってしまったのですね。。。毎回誰かが死んでしまうということ。。。最終回では誰が亡くなるのかと子供に聞くと、本を読んだらって言われてしまいました。
それが面倒だからきいているのに。。。しかもなんだかややこしい名前やら呪文が多くて日本語の本で読んでも難しいくらいでした。 ところがこのごろは便利な世の中でインターネットで検索して、私はずるをして、最終回はどうなるかあらすじって言うものを読んでしまいました。 なーるほど。 こうなるのかあ。。。ちょっと意外だったな、と話すと、子供たちが、ママは鈍感だからわからないって笑われてしまいました。 まあ、でも19年後のハリーポッターも、考えて見るとなるほどって思いました。 小栗旬の獣医ドリトルというドラマがちょっと前に終わりましたが、なんてかっこいい青年でしょう。 流れ星に出ていた松田翔太や、塚本高史なども私の中のイケメンだなあ。。。 それから、先日の夜は、マリーアントワネットの映画をテレビでやっていたので、見ました。日本からお客様が来ると必ずフェルゼンのお城へご案内しています。 ベルサイユの薔薇が大好きだったけれど、この映画のマリーアントワネットもなかなか可愛らしく、また、普通の女性としての観点から描いている感じでなかなか良い映画でした。 オスカルさまが出てこないのはちょっと残念でした。日本に住んでいたころ映画館で上映されたレディオスカルって言う映画がとてもきれいだったなあと、思い出しました。 思いっきりぐずぐずと過ごしている冬休みです。 きょうは、ゆっくり過ごそうと思っていたのに、また、ただ働きをしてしまった。。。どうして、こんなに私はお人よしというか、なんというか、おめでたいというか。。。
3月でニッキィがめでたく日本人学校を卒業することになるので、この補習校に10年以上つくしてきた私もそろそろお役ごめんになって自由時間が増えるな、と思っていたのに、きょうは、すっかりそんなことも忘れて、今度はスケートクラブで頼まれたお正月のクラブでの試合のためのポスター製作やら、挙句の果てにはいつも私がやっていたことではあるけれど、掲示板に貼るための試合の結果の製作までしてしまいました。これはいつもやっていたのは、試合のあるたびにクラブのホームページに出た試合結果をちょっと見栄えよく掲示板様に書いていたのですが、このシーズンはホームページの係りが変わったり、やめたり、そんなこんなでアップデートされなかったのでした。 それで、掲示板様のものもかけずにいたのですが、このお正月の試合までに、掲示板がすっかり開いているのは寂しいと、書く事になったのですが、ある、役員は、もうこの際、この1ヶ月くらいの試合だけでよいわと言っていたのに、別の役員がかかれなかった選手が悲しい思いをしないようにすべてを書かないなら一部は掲示しないというので、あわてて、書き始めたというわけです。 そのつど書いていく分には全く大変な作業ではないのですが、こうして、10月からの3か月分の試合をそれぞれのホームページを探して書いていくにはかなり大変な作業でした。なぜなら、私たちのクラブのホームページには試合結果がアップデートされていないからです。 まあ、まあ、そんなわけで、おばかさんというか、家事もそのままにこんなお金にならない仕事をやってほとんど一日パソコンの前で過ごしてしまいました。 パソコンに座っているとメールも入ってくるし、余計なホームページも覗いてしまい、仕事ははかどらないし、馬鹿みたい。。。 とはいっても、何とかほぼ仕上げて、気分は上々。 私は、やっぱり私の稼ぎにならない仕事をほいほい引き受けてしまう運命にあるみたい。。。子供たちが自分で自分を忙しくさせているだけだといっています。 ホッケーでは謙が「ママは何もしないでね。」と、常に言ってくれていたので、何の役員もせず、せいぜいカフェテリアで働く程度でした。 スケートも何もするなとネディから言われて、役員はしていないものの、ついつい頼まれると色々してしまう私。。。 明日はしっかり家事に励みましょう。師走です。大掃除もしなくちゃ。。。
書こう書こうと思いつつ、最後に書いた日から1ヶ月以上が過ぎてしまいました。
クリスマス、おめでとうございます。 こちら、スウェーデンでは、昨日のクリスマスイヴが一番の祝日という感じで、どこの家庭も家族で集まり、クリスマス料理をいただいて、クリスマスツリーの下に飾られたプレゼントを開けたり、小さい子供がいる家庭では、誰かがサンタクロースになってドアをトントンとして、クリスマスプレゼントを持ってきてくれたり。。。 我が家でも、街に住んでいる謙が戻ってきて、久しぶりかぞく6人と犬一匹とで、クリスマスイヴを過ごしました。 謙のリクエストで、我が家ではたいていクリスマスイヴには七面鳥の丸焼きとピラフがメイン料理です。 できるだけ小さめの七面鳥を用意しましたがそれでも残ってしまいました。 いつもはそれぞれが忙しくて、夕食も一緒にできない状態が続いておりましたが、久しぶりみんなで食卓について、ゆっくりできた感じがしました。 謙が随分とお酒が強くなっていて、ああ、父がいたら、どんなに喜んだだろうと思いました。父がこちらに来ていたころはまだ子供たちも小さくて一緒にお酒を飲むということあはありませんでしたから。。。 CioCioSanというブルガリアの赤ワインを飲みました。私もネディもあまりワインが好きではないので、ちょっとだけ乾杯したくらいでしたが、ほとんど謙が飲んだ幹事でした。パパも飲んではいましたが、謙の量には負けていたようです。 その後はシャンペンを開けましたが、これも謙とパパで飲み干し、ネディと私も1杯づついただきました。 何より美味しかったのはミルクリキュールです。私はこういう甘いお酒がすき! さてさて、何でこんなに忙しくて日記もかけなかったのでしょう。。。 まずは何とか今年もスウェーデン青少年チャンピョンの座を守ったニッキィにおめでとう! ![]() ここにいたるまで本当に大変なシーズンでした。 夏までは調子よくいっていたのですが、シーズンはじめのリンショーピングの合宿で膝を痛めて以来、胡椒続きで本当にスウェーデン選手権もちゃんと出場できるのかと思うほどでした。 長い長い道のり、でも、何とか選手権出場までこぎつけ、しかも優勝できました。 ニッキィの至難の道のりは次回に。。。
あっという間の日本滞在でしたが、かえって早くも1週間以上たってしまいました。
2週間の滞在中はあれもこれもやることが山のようにあって、充実した帰国でした。天気にも結構恵まれて台風の影響も熊本はさほどなく、一時冷え込む日もありましたが、昼間はカーディーガン姿で出かけられるほどでした。母のジヴァンシーのカーディガンを借りておりましたが、とうとう頂いて帰ってきました。 さて、私たちが行く前は父が週3回通っていたデイサービスのほうであまりに転倒が多く母が起こしたりできなかったため、ショートステイをさせてもらっておりましたが、私が長男の謙を連れて行ったので、翌日には父を迎えに行きました。 久しぶり見る謙の顔をずっと目で追って喜ぶ父の姿はなんとも印象的でした。 そこでは本当によくしていただいているのがわかるほど、父がリハビリなども受けて、栄養も考えられ、また、転倒などもしないようにしていただいたようで、とても元気になって歩けるようになって帰宅しました。 ベッドを2階から1階に移そうと話したのですが、頑として、そのままで良いというので、われわれで見守りながらそのままにすることにしました。階段ではゆっくりではありましたが、危ない様子もなく上り下りしていました。 ところが夜中トイレに起きる際、一度はベッドから転倒し、私や母の援助は受けたくないというプライドが高い人なのですが、幸い謙には心を許し、謙が手伝ってあげることが何度もありました。 謙も父には相当可愛がられた記憶が沢山あるのでか、本当にやさしく父を介護してくれました。 今度ほど謙を連れて行ってよかったと思ったことはありませんでした。 謙が東京の友達に会いに行きたいといっていましたが、父の介護にも困るので、私はいて欲しいと思いまし方、肝心の父が若いのだから行ってくると良いと快く出してくれました。 謙はご苦労様なことに、新幹線だけでも4万以上使って東京まで2泊3日のたびをしてきました。しかもちょうど台風が東京方面に接近しているときで心配しましたが、1日だけ雨に降られただけですんだようです。 謙が戻ってくると父もかなり嬉しそうに安心したようでしたが、本人も納得して11月からショートステイをしていたところに入所する事となり、私たちと一緒に行きました。 その朝は謙と玄関先で写真を撮ったり、本当に入所するということがわかっているのかなと思うような出発でした。 毎朝の仏様参りなどもこれが最後だとわかっているのかな、と思いました。 私のほうがこれが父の我が家での生活の最後の日かな、と胸が押し付けられるような気分でした。 母も、本当にわかっているのかなと思うように、栗ご飯は父が帰ってきたらしましょうね、といってみたり、ああ、もう帰ってこないのよね、と言ってみたり。。。 父は安全な場所で安全な生活をして、自宅にいないという精神面はべつとしても安心していられるところにいるというのは私にとっても安心していられます。 ただ、母が全く一人かと思うとそちらのほうも心配です。毎日電話をしますが、思ったより元気そうなので何よりです。 また後ほど、こちらの様子、あちらの様子、など書いていきましょう。。。
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