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ずっと書いていなかった

ずっとずっと書いていなかった私のブログ。
この数年で、インターネットの生活も変わってきて、パソコンより携帯やiPadなどを使うようになって、Facebookだのinstagramだのと携帯などで便利なものもたくさん出てきて、改まってブログを書いたり読んだりしなくなってしまったのでした。

思えば色々あったこの2年間。

一番大きな出来事はこのブログのサブタイトル的な家族6人のっていうところが5人になってしまった。。。大黒柱がこの春、天国にいっちゃって。。。
といっても、なんだか実感わかないのですが。
今頃は父と会っているのかな、この世の人じゃなくなったら外国語も何もなくなって話が通じているのかな。などと思う今日この頃です。

このブログの写真も古いまんま。でも変えるのもなんだか心寂しいような。。。ま、このままでいいか。男の子たちはパパよりも大きくなっちゃっているし、謙は街に小さなマンション買って一人暮らし。ちょっと遠いところの大学の学生アパートに住んでいたネディもこの夏卒業してとりあえずうちに戻ってきました。
オーストラリアの音大に留学していたイヴはパパの病気をきっかけに休学届けを出して戻ってきたまま。もうオーストラリアには戻らない様子です。そのほうが私は嬉しいけれど。

大変な2015年でした。これでもか、これでもか、というように私の前に困難や大変なことが次々と。でも父がいっていたように私はかなり強い女なのか、なんとか、なんとか、ここまでやってきた。頑張っているわけじゃないけれど、とにかく前を向いて進むしかない。
健康第一でいこう!

仕事があってよかったとつくづく思います。仕事場に行って忙しくしているとあっという間に1週間がすぎ、余計なこと考える時間がなくて済みます。

今日はとても懐かしい方からメールをいただいて、なんだか、心がぱあっと晴れてきたような気分になってきました。だから、こうしてブログを書いてみました。ありがとう、懐かしい素敵な方!
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# by obreykov | 2015-09-28 07:05

2013.06.28. あっという間に時がすぎ。。。

つい先日この日記を書いていたかと思っていたら、何と、半年もたっていました。
自分でもびっくり。
はてさて、この半年何をしていたのだろう。あれよあれよと言う間に時が過ぎて雪世界から気がつくと夏至祭りもおえ、辺り一杯緑の世界。
2月末には昨年のクラス会で中学校を卒業して以来初めて再会した幼なじみの秀才君が癌で亡くなってしまいました。人の命ってあっけないものです。
また、つい先日一緒に仕事してそのときは元気いっぱいだったコントラバス、ベース奏者が脳溢血で倒れ、療養中。。。今日一日一日を大切に生きなくてはとつくづく思いますが、つい忘れてしまいます。。。

スケートの方も昨日合宿を終え、ニッキィもトレーナーも3週間の夏休みとなりました。

庭の木が大きくなりすぎて、パラボラアンテナの障害になり、サテライトの番組が写らないようになってきたので、大きな木一本は下からざっくりと切り、他の3本は上の方の枝を落としてもらいました。
今は夏休みになっているスウェーデンは働いてくれる人を探すのが大変ですが、とても感じの良いしかもイケメンのお兄さんが二人来て8時からお昼までかかって木を切ってくれました。
ついでに、その数日前にイヴと私とで家の前のもみの木の下の方の枝を落としたので、それも持っていってもらいました。それにしても木は植わっている時はそんな量にみえないけれど、ほんの少し落とした枝のつもりでも、もの凄い量になるので、びっくりします。

さて、今日は島の別荘、といっても私たちは利用する時期がほとんどないので、貸しているのですが、テレビが調子悪いようで、新しいのを購入したので、それを運ぶことにしたようです。
パパとその友人とイヴとで運ぶようですが、ニッキィがほとんど別荘のことを覚えていない様なので、ニッキィも一緒に行こうと行っていますがどうなることやら。。。

昨日は謙が久しぶり置いてある洋服等取りにかえってきました。遅くなってしまい、泊まっていき、今朝仕事に送り出しました。
一人暮らしをしていると、私への思いやりも前より大きくなってくれるようです。
そうそう、謙は友達のお母さんのマンションをとてもやすく借りていたのですが、マンションが水害(水漏れ)で工事が入り、一時、我が家に戻っていたのですが、晴れて3月1日付けで自分のマンションを購入しました。
ストックホルム中心地の高級住宅地に狭いワンルームではあるけれど自分の城を築き、一家の主となりました。
ネディも学校からちょっと離れている小さい学生アパートから街の中心地で学校からもすぐ近くの少し大きい学生アパートに春から移ることができました。そのかわり家賃はかなり高くなったようですが。。。

今日はとてもよい天気になり、20度ほどですが、風もなく程よい日和です。
やることが山のようにあるはずなのに、どこから手を付けて良いかわからない状態。。。
この日記もとにかく今日は書いてみたけれど、果たして続けて書けるかどうかもわからない状態。
ま、ゆっくりできる時にできることをやっていこう。。。
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# by obreykov | 2013-06-28 19:45 | 徒然なる生活

2013.01.12. LKF杯優勝おめでとう

長い一日でした。
ノーヴィスの選手の頃は時々同じ日にショートもフリーも試合をしてしまうというスケジュールもありましたが、ジュニアの男子も今回はそういうスケジュールが組まれていました。
何と朝の9時の試合。ということは8時には会場へ行かなくてはなりません。ホテルから会場までは歩いていける距離なのですが、あまりに寒かったので、私が車で送っていきました。

あまりに早いので観客さえほとんどいません。
ジュニアの男子は5人だったので、1グループしかありませんでした。

SM(スウェーデン選手権)の時の様に私はドキドキしていませんでした。ニッキィはどうだったのでしょう。。。
ミスのない滑走ができますようにとそればかりを祈りながら観戦しました。
すると、小さなミスはありましたが、52.12という、自己最高点をもらうことができました。SMの時は大失敗をしてとても辛く大変な思いをしたので、まずまずのスタートでした。



その後の試合も見たかったのですが、私も前日もその前からの寝不足があったので、皆でホテルに戻り、休みました。
私はトレーナーと昼食に街に出てニッキィはほかの選手と昼食をとったようでした。
ホテルも親切で15時までチェックアウトをのばしてくれたので、ニッキィもゆっくり休めたようでした。

そして再び17時からのフリーへ!
3回転3回転という連続ジャンプも成功して98.95という自己最高点を頂きました。総合で151.07でこれも自己記録を更新。2位の選手とは27点も差をつけての優勝でした。
日本のフィギュア界にはまだまだ追いつけませんが、ニッキィなりの良い滑走ができて本当に良かったです。

試合の後はゆっくりストックホルムへ向かいました。幸い天候にも恵まれ、トレーナーの車もカーポートのない方へ駐車したのでしたが、雪に埋もれることもなく、良い一日でした。
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# by obreykov | 2013-01-23 01:25 | フィギュアスケート

2013.01.11. リンショーピングでのショッピング

やっとの思いでストックホルムを出発して、吹雪もそうひどくなく、渋滞にも巻き込まれず無事に10時ごろリンショーピングにつきました。スケート場にトレーナーとニッキィを置いて私はガソリンを入れたり、フロントガラスを洗う水を入れたり帰りの準備万端にして、ホテルに向かいましたが、案の定早すぎてチェックインができないので、車だけ入れさせてもらってリンショーピングの街に出ました。
私は、リンショーピングやエンショーピングやウプサーラなどでニッキィがスケートしている間に結構よいものを見つけてラッキーな買い物ができるので、この日も楽しみに雪の中をショッピングにいきました。ホテルは街のど真ん中にあるのでとても便利です。
思った通り、良いブーツを見つけることができました。ストックホルムでは私のサイズはなかなか置いてなかったり売り切れていたりで見つけるのが大変なのですが、この3都市では必ずと言ってよいほど私のサイズがあるのです。
雪のとき用のブーツが随分と古くなってただの雪の日は良いのですが、雪解けのぐちゃぐちゃ道を行くと、どこからもるのか中がぬれてくるのです。
ぴったりと私の足に吸い付く様なサイズのブーツを3分の2の値段で手に入れることができました。

しかも、イギリスのクッキーも見つけました!
これは、とても素朴なバタークッキーなのですが、あまり私の住んでいる近所では見かけません。
ひとり、日本人ではない人たちのやっているお寿司屋さんでお寿司と焼き肉(付け合わせはご飯でなく焼きそば!)でランチをして、ルンルンで戻りました。

戻ってから、チェックインして、自分一人のリッチな時間をすごしました。
ゆっくりとヘアーダイをして、美しくなったらテレビを見ながら読書をしながらこっくりこっくり。
何とリッチな自分だけの時間!

ニッキィたちはスケート連盟の主催する夕食にホテルで食事ということだったので、私はどこかに食べにいこうかなと思ったけれど、あまりにリラックスしてしまったので、もうどこにも出かける気分にならず、ホテルのレストランの食事を部屋に運んで一人で気ままな夕食にしました。
ニッキィは一度戻ってきましたが、すぐに友達の選手と一緒に過ごすからと出て行ったので、本当に一人でリッチな時間を過ごしました。何年ぶりだろうという感じ!
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# by obreykov | 2013-01-23 01:00 | 徒然なる生活

2013.01.22. 寒い毎日が続いています。

一時期、暖かくなって雪もとけ始め、ミオの散歩もどろんこになっていやな季節になったなと思っていたら、また大雪が降り、そして今はマイナス気温が続いていますが、今日などはかなり冷え込み朝などはマイナス18度ほどありました。昨日はマイナス4度くらいでちょうどいい感じがしたのですが、さすがに今日は冷え込みます。

私の理想の冬は早めに雪が降ってあたりが真っ白になったら、後は降らずに毎日マイナス2度ほどでとどまってくれる冬です。
そうすれば、雪かきも一度ですむし、マイナス2度くらいなら滑る心配も少なくてすみます。

ところがそうはいかないのが、現実です。
雪がずんずん降った日はせっせと雪かきをしていかないとラッセル車が通った後は道の両脇に雪の山ができるし、大変なことになります。
私は大汗をかいて雪かきに励みました。身体の中からぽかぽかとしてきて本当に良い運動でしたが、ニッキィのトレーナーは転んでしまい大腿の付け根のあたりを骨折して入院手術ということになってしまいました。
ちょうどニッキィたちが強化選手の集まりがあって、その翌日からはLKF杯という、ほぼ毎年出場しているエリート戦もA選手の試合も、そしてBC選手の試合もあるという大々的な大きな試合を控えている時でした。
ニッキィを小さいころからしっているトレーナーが急遽一緒に行ってくださることとなりましたが、彼女を金曜日の早朝に地元のスケート場まで迎えにいき、彼女の車を我が家に駐車して私の車で、ニッキィとトレーナーを連れて行く段取りを取っていたら、ちょうどその朝は夜中からずっと降り続いた雪でまだ除雪車は通っておらず、案の定、うちの駐車場に入れることができませんでした。
私の家の前はほんの少しではあるのですが、上り坂になっており、駐車場はカーポートのある方は狭いので前から入れるのはとても困難、もう一つの方は広いのですが、もっと上り坂の道をあがっていかなくてはならず。。。結局、トレーナーの車を広い方に頭から入れようということにして、私が誘導してもう一度挑戦しようと言うことにしました。今考えたら、何も2台でいく必要がないのに、そのときは頭が回りません。
するとどちらの車も雪にとてつもなく弱いベンツだったので、雪に埋もれてしまい前にも後ろにも行かなくなってしまいました。
ニッキィにスコップや雪かきや砂を持ってきてもらったり、最後には寝ていた夫も起こしてなんとか雪から脱出。
トレーナーの車は夫に運転してもらって駐車してもらいました。
何と5分ですむはずの駐車が40分もかかってしまい、果たして集合時間に間に合うか、という感じで出発しました。
でも、思ったより渋滞にも巻き込まれず、予定時間きっかりにリンショーピングという街に到着しました。
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# by obreykov | 2013-01-23 00:45 | 徒然なる生活

2013.01.03. 春が来たかと思ったのにまた冬

年末から数日プラス気温が続いて、だいぶ雪が溶けて来たので、ミオの散歩の後の度に半分シャワーという大変な毎日でした。 昨日の昼等はなんだか春の気配がして来たように思えたのでした。犬の散歩にはあまりうれしい季節ではないなあ、と思いながら歩いていた時、黒い犬の散歩をしている人にあって「新年おめでとう」と言い合い、つい、「いやな天候ですね。」と言ってしまったら、変な顔されたので、あわてて、散歩の度にミオは真っ黒になるからと付け足しました。
普通なら、暖冬で喜ぶ季節だったのです。そしたら、暖かくてよいわ、うちは黒だから目立たないし、なんて返事。黒くて汚れが目立たないからいいって言う問題じゃない様な気がしました。
黒で目立たないからちょこっと拭いて家に入れているのでしょうか。
ミオは真っ黒で、普段は足を小さなおもちゃのバケツに入れた水でちょこちょこと洗ってから家に入るのですが、今は半シャワーをしないとお腹の辺り砂と水と泥で真っ黒です。
その後始末がいやなので、家族は今はミオと散歩に行きたがりません。
雪の方がずっといいな、シーズン始めに雪が降ってその後は降らずにマイナス1度か2度でとどまってくれたら最高なのに、と思っています。
ところが昨晩散歩に連れて行くと、少し気温がさがってか、ほとんど汚れることもなくまたぬれることもなく戻ってくることができました。
そして、何と今日はまた雪が!
やっぱりスウェーデンの春はまだまだ先の話のようです。

年末の大掃除がすべてすまなかったので、今頃になってあちらこちら始めています。
まだ仕事が始まらないので、ゆっくりとマイペースで、と思っているのですが、期限は一応あります。
5日に夫が誕生会をするというので、それまでにはせめてリビングとキッチン等を見られるようにしておかないとなりません。
ドラマの「ホタルのヒカリ」と同じ様な状態の我が家。。。よく亡くなった父が「この家は定期的にお客さんを呼ばないときれいにならん。」と言っていたのが耳に聞こえてくるようです。
仕事もないし、今はニッキィのスケート場への送り迎えもないので、十分時間があります。

大晦日とお正月には自分へのご褒美で、「テルマエ・ロマニ」と「ロボジー」という映画を見ました。
久しぶり笑いと感動の映画でした。
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# by obreykov | 2013-01-03 21:30 | 徒然なる生活

2013.01.02. 父が会いに来た!

今日は早朝からニッキィたちを空港に送り、そのまま朝8時から開いているスーパーに買い物に行きすっかりくたびれて戻りました。早朝の買い物はなかなか良いなと思いました。10時に閉まるスーパーなので、よく夜遅くニッキィのトレーニングの後にしまる15分前とかに買い物に行きますが、焼きたてパンが半額だったり、人も少なくとてもよい感じだったのですが、いつもギリギリで大急ぎでしたが、早朝は人も少ない上にゆったりできて最高でした。仕事が始まったらそんなことしていられませんが。。。

帰ってからは、ニッキィの友達からもらって来た大きな水槽にうちのグッピーたちを移したり、お昼の支度したり、ヴェステロースに戻るネディを駅まで送ったりと、結構忙しく過ごしました。
なんだか、心身共に疲れた感じで、だんだん、立っているのも辛い感じがして来て、ベッドにはいってちょっくら昼寝というか夕方寝をしました。
ほんの少し、のつもりが、すっかり2時間くらい寝込んでしまいました。

すると、なんだか不思議な夢をみました。
両親を連れてピアノのレッスンに行っています。私が先生なのか、生徒なのかよくわからなかったのですが、訪問先の人が親切だったのですが、話しているうちに、明日、うちにみえるということになりそうで、私は家の中がしっちゃかめっちゃかだったので、大慌てでなんとか理由をつけてうまくお断りしようと必死でした。
すると、父や母がいつでもだれが来てもお迎えできる家庭にしなくてはと言っていたのを思い出しました。二人は、「ほらね」と言わんばかりの顔をして私を見て微笑んでいました。
そこを出発して駅に着くと母が一人、ベンチに腰掛けて私を待っています。
「じっちゃは?」ときくと、「あら、今まで一緒にいたのに、どこいったのかしら?」とのんきに答えるので、「やだ、どこ行ったのかしらじゃないわよ、ちょっとこれ見ていて。」と荷物を頼み、探しに行きました。
そこは私がかつてよく利用した池袋の東口の様な感じでした。
「パパー、パパ」と叫びながら、子供が産まれてから「じっちゃ」と呼んでいたのに、今更、「パパ」なんて呼んでも果たして父はピンと来るのかな、等と考えながら叫んでいると、父も私たちを捜してキョロキョロしながら私を見つけるとニコニコして、こちらに向かってきました。
私は思わず、「やだ、私からはなれないでよ。」といいながら父の左手と背中に抱きつきました。
左手は細かった父なのに、暖かくてぷかぷかとした感じで太ったのかなと思うようでしたが、私の右手がつかんだ父の背中は亡くなる前に入院していた頃の骨と皮のように細くなってしまった父の背中でした。

そんなところで目が覚め、不思議な手に残った父の感覚を感じながらベッドの中でぼーっとして、枕元においてあった携帯を広げてみると、何通もメールがはいっていました。
その中の1つは何と父の葬儀や初盆、一周忌とお世話になった来迎院からでした。
ますます、不思議な感じで、私は一時ベッドの中で不思議な気分に浸っていました。

今でもこの左手に父の左手のぬくもりと、右手には骨と皮のように痩せ細った父の身体の感覚が残っています。
ニコニコしていて、何も話しませんでしたが、なんだか本当に父に会った様な気がしました。

お正月だから、夢の中に会いに来てくれたのでしょうか。
世の中不思議なことがあるな、と思ってはいましたが、このごろ特にそれを感じます。
父が亡くなった日に日本からスウェーデンへ飛行機で飛んでいた私は、飛行機の外に父だったのか、誰かの気配を感じました。それも、今思えば、父の魂だったのかな、と、考えます。

私のとても親しくしている友人もずっと以前に私のところに遊びにいらしている時明け方お父様が名前をお呼びになった夢を見たので、家に電話してみてよいかときいたことがありました。
連絡が取れず、あとになってやっと連絡が取れた時は、お父様が交通事故で、入院なさっていたためだったのですが、その交通事故に遭われた時が友人が夢でお父様に呼ばれた時だったのでした。

まだ、科学ではわからないことがこの世には沢山ある様な気がします。
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# by obreykov | 2013-01-03 05:40 | 両親

2013.01.02. 新年おめでとうございます。

2013年になりました。
明けましておめでとうございます。
2011年から慌ただしい毎日が通り過ぎていきました。長い様で短く、短い様で長い、なんとも言えない私にとっては試練の年でした。
毎年36歳と言い続けていた私ですが、いささか、このごろは疲れて来た感じです。
昨年は日本で年を越し、今年はだれもお客さんを呼ばずに静かに新年を迎えました。
上の3人はそれぞれ友達とパーティーを企画して夕方から出て行きました。謙は何度も買い物もしたりものを運んだりして忙しく過ごしていました。
ニッキィも友達と過ごす様なことを言っていましたが、少しだけ風邪気味が自分でも気になっていたのか、日本の6時間番組とかを見たりしておとなしく家で過ごしていました。
たった三人だけの大晦日でした。
スモークサーモンをオードブルに、牛ヒレ肉の丸焼きに赤ワインソースととポテトグラタンの付け合わせ、そしてデザートはとらやの羊羹、ちょうど新年を迎える時は打ち上げ花火をききながら、シャンペンを開けて、福引き入りのチーズパイ、というメニューでした。
あちらこちらで花火が時々あがるたびにミオは震えていましたが、12時にもの凄い花火があがり始めるとかわいそうなくらい震えて心臓が飛び出すのではないかと思うほどバクバクしていました。

今までは毎年友人たちも呼んでの大晦日だったので、1年の計元旦にありではないけれど、朝までかかって、洗いものと掃除をしていましたが、今回はだいたい洗って、掃除はしませんでした。
しかも誰もいないから、12時になる前にお風呂にはいってネグリジェ姿で新年を迎えました。

ネディは夜中、3時半頃戻ったようでしたが、謙は元日の昼頃、イヴは夕方近くなって戻ってきました。
夜ご飯と言っても良いくらいになってから、九州風、関東風、お雑煮もどきを作って冷凍してあったお餅を入れて食べました。
とっておきの善光寺の甘酒も作りました。
少しだけ日本のお正月。。。と言っても全くお正月の気分はしませんでした。

今日は朝7時半にニッキィのトレーナーを迎えにいって二人を空港へ送りました。
毎年恒例のアンシャルンスヴィークという北の街でスケートの合宿です。

母は4日までショートステイですが、携帯電話を持っていっているはずなのに、出ないところを見るときっと携帯はバッグかなにかにしまい込んで聞こえないのでしょう。。。
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# by obreykov | 2013-01-03 00:41 | 徒然なる生活

2012.12.20 おめでとうニッキィ、6連覇

昨年は父の亡くなったとき私は何も知らずに日本を後に、スウェーデンに戻り、翌日には既に南スウェーデンのマルメという街に行っていたニッキィを追って、フィギュアスウェーデン選手権の応援に駆けつけました。
一人で汽車に乗り、ぐったりと疲れているのに、なんだか眠ることもできずに、マルメに着きました。
ニッキィは膝の調子が良くなかったりしていたのに、その前2回ほどエリート戦で試合に臨むことができました。ジュニアのクラスにあがって初めてのシーズンだったので、はじめのウプサーラでの試合では3位に終わりました。
私が熊本に行っていた間のストックホルムでの試合では1位になったということだったので、もしかしてもしかしたら、うまくいくかも、と思いました。
天を仰ぐと、すぐそこに父がいる様な不思議な感覚がしました。49日も終わっていないので、まだその辺にいたのかもしれません。
父に、どうか、満足のいく滑走ができますように見守っていてね、と天を仰いで頼みました。
ニッキィのトレーナーはニッキィがきかないなら、父の死は言わない方が良いというので、私もあえて教えず、ニッキィも何故か父のことは訊こうともしませんでした。
そして、ショートもフリーもとても良い滑走ができて、結果的には何と優勝をすることができたのです。
優秀なジュニアの選手がいた中、優勝ができたなんて本当に夢のようでした。
私は本当に父が力を貸してくれて、最高の滑走ができるようにニッキィに力をくれたとしか思えませんでした。そのために、父が私をスウェーデンに戻したくて、最後の力を振り絞ってがんばって、私をニッキィのもとへ行かせたとしか思えませんでした。

さて、今年のニッキィもシーズン初めはまた、成長からか膝が痛くなったり、また、体調を崩して、せっかくのジュニアグランプリを棒に振ることになってしまいました。
エリート戦にさえ、出場ができず、マルメでの試合の前に、特別に試合としてカウントされないけれど、女子のエリート戦に特別に滑走させてもらうことになりました。
そのとき、点数だけは頂き、審判からも色々な助言を頂き、マルメの試合に臨みました。
マルメではニッキィより年上の優秀な選手もいたのですが、なんとか良い滑走ができ、上位にたっていました。
でも、マルクス選手はトリプルアクセルもプログラムに入れているので、もし、成功したら、油断をしていられません。ところが彼が病気とかで棄権になったので、何の心配もなく良い滑走をすることができました。
そのときの表彰台は三人ともお母さんが日本人だったのにはびっくりしました。

その後、ニッキィはスケート連盟からスウェーデン代表でドイツのNRW杯に出かけました。
今シーズン初めての国際大会で、学ぶこと沢山あったようでした。
飛行機が欠航になったりで大変な思いをして戻ってきました。そんな中準備が不十分でスウェーデン選手権に臨むこととなったのです。

さて、今年のスウェーデン選手権です。
ニッキィたちは12日の水曜日から飛行機でヴェクショーという街に出かけていきました。
トレーナーがアイスを見つけてくれて、練習をしてからでかけることになっていたのですが、ニッキィは学校で13時30分から18時までの全国統一試験があったため、練習に参加することができず、私たちが学校へ迎えにいきそのまま飛行場へ送っていきました。

私は翌日友人と汽車で応援に向かいました。
もちろん、今年も天の父に頼んだのはいうまでもありません。
ところが、ショートではジャンプもミスがあり、ニッキィらしくない滑走になってしまいました。
当然、点数ものびず、3位になってしまいました。
見ているみんなもあまりにニッキィらしくなかったので、どうしたのかとびっくりしていましたが、こんなこともありましょう。。。
私は、どのようにニッキィに会ってよいかわからず、ホテルに戻りました。
ニッキィの友達のお母さんが息子さんに電話するとニッキィも一緒だった様なので、少しは安心しました。
トレーナーがニッキィと話すからと私に言ってくれたので、私はすべてトレーナーに任せて、友人のお母さんと一緒に遅い夕食を食べました。
しばらくすると、その息子さんがトレーナーから電話があってニッキィは出て行ったということだったので、私たちはしばらくロビーでおしゃべりをして、夜も更けてきたので、それぞれの部屋に戻りました。
すると、ニッキィとトレーナーが私たちの部屋で何やら話していたので、私は失礼しようとしましたが、トレーナーが私も中に入って、とおっしゃるので、私もはいってみました。
案の定、ニッキィは自分の滑走に満足できなかった悔しさで、涙を浮かべておりました。
こんなニッキィを見ることはほとんどありません。
でも、トレーナーはある時は厳しく、またある時は優しく、そして、昔のプルシェンコやアプトの時代の試合の様子、大失敗した最終グループに入れなかったプルシェンコがフリーでとても良い滑走をして、逆転したこと、等等、いろいろな話をしてくれました。
最後に、気持ちを入れ替えて、サンドイッチを少し食べてゆっくり休んで明日のトレーニングにはもっと頭を上に向けて!と励ましてくれました。

翌日は早朝に公式練習があり、私はニッキィを見送ってからゆっくりホテルの朝食をとりました。
女子の応援に行きながら、次はいよいよ、ニッキィたちジュニアの番です。
3位だったニッキィは最終滑走グループの2番目です。
こんなにドキドキしたことはありません。
ニッキィが前日のことをひきずって、めためたにならなければ良いけれど。。。ただ、ちゃんと滑れますように、と天の父に頼みました。外に出て天を仰ぐとなんだか父を感じて、きっとうまく滑れるように力を貸してくれるだろうと思いました。

ビデオを持つ手がドキドキして震えます。友達がのどがからからにならないようにとのど飴をくれました。
3回転3回転が2回転3回転になってしまいましたが、なんとかジャンプを一つ一つこなしていっています。
スケーティングものびのびと良い調子のようでした。
拍手も聞こえてきます。
最後のジャンプとスピンと。。。
終わるとトレーナーが迎えに出てニッキィを抱きしめていました。
私たちはいつもニッキィが何位になるか、どんな点数が出るか、ということより、ニッキィのトレーナーがどれだけニッキィの滑走に満足しているかが一番気になるところです。
滅多に褒めないターニャがニッキィを抱きしめているのはうまく滑れたということだ、とほっとしました。
キッスアンドクライでは、何やらターニャが一生懸命コメントをしているようでした。
そしてびっくりする様な点がでて、大きな拍手が聞こえてきました。
でも、まだ二人の選手の滑走が控えています。

後の選手がどのように滑ったか正直目にはいらない気分でした。
次の選手の点数を見て、ああ、少なくとも2位になった、と思いました。
そして最終滑走の選手がほとんど3回転さえ飛ばずに調子が悪かったので、あれあれあれ、と思いました。でも、ショートで、ニッキィと8点ほど差があったので、どうなるかわかりません。
しかし、2位の選手と約7点の差を付けて、ニッキィが圧勝しました。

私は自分の耳を疑ってしまい、横にいる友人たちに「本当なの、本当なの?」と何度も訊いていました。
そして、初めてボロボロと涙がこぼれてきました。
クラブからサポートにきてくれていたもう一人のトレーナーもすぐ私のところにきてくれて、一緒にボロボロ涙をこぼして喜んでくれていました。

私は外に出て天を仰いで父にお礼を言いました。
きっと、簡単に勝たせてはくれなかったのも神様がニッキィに与えた試練だったのかも知れません。
ターニャはこれも本当に良かった、とおっしゃっていました。
おめでとう、ニッキィ。
本当にあのショートの後の立ち直りには私もびっくりしました。
よくやった!
今回の優勝は今までスウェーデン選手権で5回優勝しているけれど、一番重みのある6連覇でした。

そして、こうしてよい方向に導いてくれる良いトレーナーを持って本当に幸せなニッキィです。
おめでとうニッキィ!
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# by obreykov | 2012-12-21 07:20 | フィギュアスケート

2011.12.14. さようならじっちゃ

2011年12月14日、これが私の父の命日になってしまいました。
今だに、父がいないのが信じられないのではありますが、もう、会うことも話すことも、またしかられることもなくなりました。
私が夜に爪を切ったから、父が言っていたように親の死に目にあえないぞ、と言うのが本当になってしまったのかしら。父は、強い人だったから、私に弱みを見せたくなかったのかしら。
私がスウェーデンに帰るのを待つかの様に、息を引き取ってしまいました。
最後はどんなに苦しかっただろうと思うと、本当にかわいそうでなりません。
何でもできる人だったから、人の世話になるくらいなら死んだ方がましだと言って、延命治療も何もいらないというサインまでしていた人だったから、最後はどんなに苦しかったろう、いやだったろうと思います。

私の子供たちはもちろん、従兄弟従姉妹たちまでもを生まれた時にはお風呂に入れて子供の面倒を見るのが本当に上手な人でした。

さようなら、じっちゃ。孫から「じっちゃ」と呼ばれていた父は私にとってももう、じっちゃという呼び名の方がピンとくるくらいです。世界一厳しく世界一優しい人でした。
今は、天からきっと私たちのことをいつも見守っていてくれるのだろうと確信しています。
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# by obreykov | 2012-12-19 21:19 | 両親

2011.12.13. 父と最後の日

明日早朝はスウェーデンに帰らなくてはならないというこの日。父との面会もとりあえずは今回は最後の日と思って、父にも、一般病棟にうつって、少しずつでも回復に向かってよかったね、今度は孫たちも連れてくるからね、私は、いったんスウェーデンに戻るからね、ニッキィはスウェーデン選手権にもう出発しているから、私もスウェーデンに着いたらすぐに応援に駆けつけるのよ、うまくできるように応援してあげてね、等と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのでしょう。。。私も、あの時、本当にニッキィたち孫を連れてくるまで父が元気になっていると信じていたのでしょうか。今だに、あの時の自分がどんなだったのか何を考え、どう感じていたのか、わからなくなります。私の父に限っていなくなるなんてあり得ないとでも思っていたのでしょうか。

父とは会話もできないまま、でも、きっと私の声は聞こえていたのでしょう。涙を浮かべる時もありました。目を追って顔を動かす時もありました。
父の苦しげな声を聞くと、これ以上苦しめないで、と神様に祈っていました。完全に回復することがない病気を抱えていたのだから、覚悟はしていたはずなのに、私は父がいなくなるなんて考えても見ませんでした。

この日には、母も一緒に連れて行き、しばらくの別れを父としたのでした。母も私がいないと面会も行けません。母の弟夫婦に母がデイサービスのない日は面会ができるようにと頼んでおきました。

ちょうど、午後にみつぐ苑の先生ともう一人面会に来てくださいました。先生はここの国立病院の救命救急の医師であり、父の主治医である先生をよくご存じでした。この先生なら安心ですとおっしゃったので、私も本当に安心しました。
父の胸から水を取り出していましたが、その水に血も混じっていて、私は心配でした。医学のことは何もわからないから。。。みつぐ苑の先生もそれを見ていらっしゃいました。
今後の母のこと等も相談して、母があまり気落ちしていないことが何よりの救いだと話しました。

父としばしの別れをして、私たちは家に帰りました。

私は、翌日4時にはタクシーを呼んであったので、その日はもう寝ずに出発するつもりで、寝具も片付けてシーツ等洗濯しました。
荷造りをしていると、病院から父が危篤だと電話があり、母とタクシーで駆けつけました。
母の弟夫婦や父の兄嫁やその息子等も駆けつけてくれました。

私たちが到着すると父は少しもちなおして、危篤状態から少しだけ回復していました。
どうしたの、しっかりして!今からスウェーデンに戻って、今度は孫たちも連れてくるからそれまでにもう少し元気になっていてって言ったじゃない。と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのか、「あーあー」とさえ声を出すこともできました。

親戚のものは、スウェーデンに戻らずそのまま残った方が良いと言いました。それは父が危篤でいつ亡くなるかわからないから?
今までも危篤になったけれど、もちなおしたじゃない。一般病棟にうつれたじゃない。
色々な思いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、本当に私はどうしたら良いのかわかりませんでした。
もちろん病院の先生もこうしなさい、とおっしゃれないのは当然のこと。でも、先生もいつどうなるか予想はできないとおっしゃります。
このまままた回復するかも、あるいは今日かも、明日かも、1ヶ月後かも、もっと先かも。。。
そんなこと神様だけがご存じなのです。

みんなは残るようにと言いましたが、夫と叔母だけは、とにかく一度予定通り戻って、それから改めてまたくれば良いと私の背中を押してくれました。
主治医と相談し、夜中の2時をタイムリミットとしてそれまで何も変化がなければ私にはもう連絡せず、そのままスウェーデンにいったん戻るということにし、もし、何か変化が起きたら、再び危篤状態になったら連絡をしてもらうということにして、私たちは家に戻りました。

もう一度、父にとりあえずのお別れをし、聞こえているか聞こえていないかわからないけれど、明日、いったんスウェーデンに戻って、ニッキィの応援をして、その後、またここに戻ってくるからねと言って別れました。
父の「あーあー」という声が聞こえている間はどうしても離れることができませんでしたが、少し落ち着いて眠る様な感じになった時に私と母は家に戻りました。

母も眠れないのか、私と一緒に起きていました。
私は荷造りの続きをして、時計とにらめっこで過ごしました。
1時半が過ぎ、2時になりました。
病院からは何も言ってきません。

私は父のクローゼットを開けました。
そこには父の洋服が整然と並んでいました。
父が好んで来ていたブレザーにすがって涙が出てきて、私は初めて、大泣きをしてしまいました。
ふと見ると、父が愛用していた、能面のなんといったか、ネクタイ変わりに首に下げていたものが目に入りました。
父は、飛行機が好きで、1年もたたないうちに、そろそろ飛行機に乗りたくなったなあといいながらスウェーデンに来るのが楽しみだったのに、あの、PSP進行性核上性麻痺という病気に冒されてから、スウェーデンに来ることができなくなってしまったのでした。
私はその能面を自分の首に下げ、父の変わりに連れて行こうと思いました。なんだか首に下げると父が一緒にいる様な気分になったのは本当に不思議でした。

そのまま、タクシーの来る4時になりました。
私はタクシーに乗り、母にはもう、二階の寝室に行って休むように言いました。母が部屋に入るのを確認して、私は父の建てた自慢の家を後に、熊本交通センターに行き、福岡空港への高速バスに乗りました。

福岡出発の前、家に電話しましたが、母は寝ているのか出てきません。叔母に電話しましたが、留守でした。そういえば叔父が毎週水曜日は通院していたんだったとおもい、成田に向かいました。

上空はよい天気で太陽が出ていて、私はふと、窓の外に何か気配を感じました。とても不思議な感覚でしたが、まるで、映画のスーパーマンがエンジンの壊れた機体を運びながら乗客が窓の外を見るとスーパーマンが飛行機とともに飛んでいるという場面が目に浮かぶ感じでした。
一生懸命外を見るけれど、スーパーマンなんて飛んでいないし、だれも外にいる訳ありません。
でも、私は、人の気配を感じたのでした。
あれは、今思うと、父の魂だったのでしょう。
父は私と一緒に、スウェーデンまで来ていたのでしょう。

成田について、電話をしてみるけれど、母はもう、みつぐ苑のデイサービスに出かけた時間。母の弟夫婦はきっと通院している病院へいるはずの時間。だから、私は、父の兄の家に電話をしました。従兄弟の奥さんがでて、「わあ、絵美子さん大変だったね。。。もう帰っているのね。。。」と言っていたのですが、それ以上はろくろく話しませんでした。
母の弟の携帯に電話してみて、ちょうど出たので、私は、父に万一のことがあったら、右の親指を上にして手を組んであげてね、と頼みました。
叔父はわかったわかったと言って、私はヨーロッパ便に乗りました。

夏のさわやかな日々、スウェーデンでは私たちはほとんど庭で食事をしていました。
特に子供たちが小さいころは父が庭先で本を読みながらプールで遊ぶ子供たちを見守っていてくれました。
そんなとき、手を組んでいたのを見て、右の親指が上になるように組んだり、反対に左が上になるように組んだりして、私は左が上にならないと気持ちが落ち着かないというと、父はその反対で、右が上でないと落ち着かないから自分が死んだ時は右上に組んでくれないと成仏できないから、覚えておいてくれ、と笑っていたのを思い出したからです。

そんな話をしたのに、叔父はわかったわかった、と言っただけで、道中の私に何もできなかったからしらせなかったのでしょう。でも、やはり、あの時私は父がもう駄目だったのを感じていたのだと思います。
家についてからも、母に電話するけれど、いないので、母の携帯に電話しました。
すると、ちょうど、火葬場から戻ってきたところだということでした。

私の父は、きっと、私に最後を見せたくなかったのでしょう。私にニッキィのもとへ行かせたかったのでしょう。だから、最後までがんばって、私をスウェーデンに帰したかったのでしょう。

父は私が高速バスに乗る頃、再び危篤状態になって、母の弟夫婦が母を迎えにいって病院に駆けつけ、6時6分にその生涯を終えたのでした。
私が飛行機の中で感じたのは、やっぱり父だったのです。
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# by obreykov | 2012-12-19 21:10 | 両親

2011.12.12. 最後のショッピング

父が一般病棟に移ったことで、面会時間を気にせず会いにいけるようになりました。それに完治しないのはわかっていると入ってもとりあえず、ICUから出たということで安心したというか、安心したと自分に思い込ませて、私も家族から頼まれていたものを買いに行ったりできる気分になりました。
日本の薬や化粧品などは、前から愛用しているものがあるため、いろいろと買いに行きました。

葛根湯、正露丸、セデス、イブクイック、ビタミンC、ポカリスウェット、田舎味噌、麹、胡麻、などなどなどなど。

父は相変わらずですが、痰が詰まるらしく、それを取り除いてもらったりしているとき、私は病室から出ているのですが、苦しそうな声が聞こえるのはたまりませんでした。
でもそれをしないわけにもいかないし、とにかく苦しい思いを少しでも少なくしてほしいと願うのみでした。

母がアルツハイマーのおかげといったらおかしいのですが、父のそんな様子を目の当たりにしても、現実を把握できていないのか、あっけらかんとしているのが不思議でしたが、ある意味、母が現実を把握してくれていないのが助かる部分もありました。
母は、どこまでがどのようにアルツハイマーが進行しているのか、ついさっきの記憶は結構難しくなってきています。

母が私が帰った後一人で国立病院まで来てしまっても、病院内で父の居場所を果たして見つけることができるのか、それが心配で、決して一人では来ないでよ、と何度も行って聞かせました。

母が、夜遅くまで新聞を読んでどうかすると明け方までリビングで起きたままでいるのが本当に心配を通り越して頭にきてしまうときも多々あります。
新聞を読んでいたとは言うものの、こっくりこっくりと居眠りをしているようで、風邪を引かなければよいがとそれが心配です。
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# by obreykov | 2012-12-14 21:52 | 両親

2011.12.11. 母と一緒に

母がデイサービスが休みの日だったので、二人で街に出かけ、お歳暮を贈りました。
日本はお中元お歳暮の習慣があるので、ある意味、よいと思いますが、ある意味、無駄なことだとも思いました。義理で贈らなくてはならない,いただいてもお返ししなくてはならない、いただいたものも必要ではない、などなど、結構無駄なこともあるように感じるのは私だけでしょうか。。。
よく父が、スウェーデンに来ていると冠婚葬祭の面倒なことをしなくてすむから助かると笑っていたのを思い出します。

母と街で昼ごはんを食べてから、時間にとらわれずに父の面会に行きました。
父は相変わらずでしたが、貧血があるとかで輸血をしていました。
大丈夫かな、とちょっと心配でしたが、一般病棟で普通の人工呼吸器で、と何か安心しようと努力している自分を感じました。

父が一般病棟へ移ったというとで、安心したのか、私自身もどっと疲れを感じました。気の緩みからか風邪も引きそうな気分になってきたので、あわててビタミンCを飲み、葛根湯をのみ、夕方は疲れてソファで眠ってしまいました。
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# by obreykov | 2012-12-14 20:25 | 両親

2011.12.10.一般病棟へ

朝、叔父たちが迎えに来てくれて一緒に病院へ行きました。
信じられないことですが、なんと午後には一般病棟に移るということ。びっくりしてうれしくてその日は日本に来て初めてショッピングをするために叔父たちがユニクロに連れて行ってくれ、まったく食欲も何もなかったのですが、とても美味しい回転寿司にも連れて行ってくれました。
私は始めて、ショッピングをする気分になって子供たちや母や私の洋服などを買う気になりました。
今まではどこに行っても商品を見ても目に入らず、父のために必要なものを病院から言われたとおりのものを買うくらいしかできなかったのに、人間の心とは本当に不思議にできています。

あの日は本当にうれしいだけでしたが、いま、1年もたって考えて見れば、一般病棟へ写るということは必ずしも回復に向かっているから移ったということではなかったのだろうと思います。
普通の人工呼吸器になったのも必ずしもよい方向へ向かっていたからではなかったのでしょう。
でも、あのときの私は単純だったのか、そう願いたいという気持ちからか、喜んでいたのでした。回復するはずがないのがよくわかっていたのに、認めたくなかったのか、でも、父が少しでも楽になってきたのかと錯覚していたのか、いまだに自分でもよくわかりません。

とにかく私は本当にうれしくて、お寿司も美味しくいただき、初めて熊本で何かを美味しく食べたような気がしました。子供や夫へのプレセントとして日本の洋服も買い、気持ちがずいぶんと楽になりました。

3時ごろ病院へ行くとちょうど一般病棟へ移ろうとしているところで私も手伝うことができました。
担当医はそのまま同じ先生だったので、安心しました。
あとで知ったことでしたが、担当医は父がお世話になっいたみつぐ苑の診療所の先生もご存知で、とても優秀な救命救急の先生でした。
ドラマで見ていたような救命救急が現実に本当にあわただしい毎日を送っているのを目の当たりにしました。

父にもよかったねよかったねと連発して安心して夕方には家に帰りました。
もう、30分以内の決められた面会時間ではなく、いつでも父に会いにいけるようになりました。
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# by obreykov | 2012-12-14 20:11 | 両親

2012.12.14.あれから1年

今日は父の祥月命日です。といっても時差があるので、昨晩22時6分に父は亡くなったことになります。
私は、去年と同様にニッキィのフィギュアスケートのスウェーデン選手権の応援のために今年はヴぇクショーという南スウェーデンに来ています。
昨年の試合のときはニッキィには父の死を知らせず、私は天を仰いで父にニッキィのこと守ってあげてね、と祈ったものでした。なんだかすぐそばに父を感じていました。あのころ、まだ天国まで行かずに私の頭の上のほうをうろうろとしていたのではないかと思います。すぐそばに父を感じていたから不思議です。日本からの飛行機の中でも、スーパーマンがエンジンを抱えて故障した飛行機と一緒に飛んでいたときのようにすぐそばに父を感じていたから不思議でした。

さて、今日は夜にジュニアのショートがあります。3年も膝の痛みや、あるときは別の怪我や病気で試合をドタキャンしたり、波乱万丈だったニッキィですが、こうして元気に試合に臨むことができつつあることを心から喜び感謝しています。

がんばれニッキィ!
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# by obreykov | 2012-12-14 19:55 | 両親

2011.12.09. 胸に穴が。。。

母をいつもの様にみつぐ苑のデイサービスに送り出してからすぐ病院へ出かけました。11時の面会に間に合うように。すると父の兄嫁である私の叔母も来てくれていました。
父は一時期とまったく違って目も開け、話しかけると「あーあー」といって、特に右目はしっかりとして顔も動かして私の方を見たりしてくれました。私のことがわかるのかな。目で追ってくれます。このまま良くなれば良いけれど。。。とにかく父が苦しまないように痛くないように、とそればかりを祈ります。
14時の面会にも行きました。前日のCTスキャンによると何と胸に穴もあいていることがわかったようです。
肺炎がひどいということなのでしょうか。肺の水も完全にとることができていないそうで、かといって急にだしてしまうと良くないそうで、その辺を細かく調整しながら治療をしているということです。
私は医学的なこと何もわからないけれど、水が入っているなら早くだしてしまって!穴があいているなら早く塞いであげて!と叫びたい気持ちで一杯でした。
父がどこまでわかっているのかわかりませんが、とにかく「夕方母も連れてまたくるね。」と行って私は家に戻りました。
私も今思えばかなり疲れていたのですが、あの頃はそれを感じている暇もありませんでした。

母がみつぐ苑から戻るのを待って、18時と19時30分の面会に間に合うように行きました。
父は小鼻の人工呼吸器のマスクの傷の手当をしてもらっているところでした。こんなに傷になるほどぎゅっとマスクを押し付けられていたのでしょう。それも辛いだろうなと思いました。
1ヶ月前に癌でなくなった叔父が同じ人工呼吸器をつけられており、一度外した時に医師に「お願いだからこの人工呼吸器はつけないでください。」と頼んだそうです。とても辛い人工呼吸器だそうです。
私もここの医師にきいてみたら、無理に呼吸をさせられている状態だから、私たちが車の窓から口を開けては知っている状態を想像したら良いと思います。ということでした。

でも自分の力で呼吸ができるようになったというのはすごいことだと思いました。
医師もあの人工呼吸器をあの時の状態で止める訳には行かないとおっしゃっていました。あくまで治療だから治療方針を変える訳にも行かないし、外したら呼吸ができなくなるというのをわかっていて外すわけにはいかないそうです。
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# by obreykov | 2012-11-30 21:52 | 両親

2011.12.8. 人工呼吸器が普通のタイプに!

1年も前のことを書こうとしているのですが、まるで昨日のように思い出されるのが不思議です。
今日は、2012年11月30日、昨年の今頃は父が生と死と必死に戦っていた頃。。。
今、ここ、ストックホルムでは昨日からの小さな粉雪が降り続いて、すっかり銀世界となり、ミオの散歩もとても楽になりました。

さて、この1年前の12月8日は、入院中の父が一番良くなった日でもありました。
朝、母をみつぐ苑のデイサービスに送り出してから11時の面会にいくとちょうど検査に行ってベッドが留守の状態でした。私は、その間に銀行へ行ってお金をおろしたり、色々な用事を済ませて14時のめん貝に行きました。
すると昼頃から最新の機能ではあるけれどあの恐ろしげな、人工呼吸器を外しているということでした。小鼻の辺りには人工呼吸器で押さえつけられて傷になっていたのがとてもかわいそうでした。
先生が「自分の力で呼吸をしていますよ。」とおっしゃったので、本当にうれしくなり、父の耳元で何度も「よかったね、よかったね。」と言いました。
その後バスで家に戻り、母が戻ってくるのを待って、再び病院に18時の面会に一緒に行きました。
母はどこまで父の様子が把握できているのだろうという感じがありましたが、人工呼吸器が外せるようになったことを一緒に喜んでいました。病院で少しゆっくりと待合室で待たせてもらって次の19時30分の面会にも行きました。
このまま回復してくれれば良いけれど。とにかく父が苦しくないようにと祈るばかりでした。

街の真ん中にある病院ではありますが、街にでる元気もなかったので、母と二人、病院の食堂で夕食をとって帰りました。元気になるわかめうどんがとても美味しいのです。
タクシーで帰宅しました。早く父が良くなることを祈って。。。
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# by obreykov | 2012-11-30 21:34 | 両親

2012.11.25. あれから1年

父が入院してちょうど今日で1年目。
父の入院から死に至までを記録しようとし始めて、途中でとまってしまいました。でも、辛いけれど少しずつでも書いて行こうと思います。

あれから、もう1年が過ぎてしまったなんて、まるで昨日の様でもあるし、もうずいぶんと時が流れた様な気もするし、不思議な気持ちです。父が亡くなってしまったのは事実で受け止めているのに、なんだか今頃になって実感がなかったりするから不思議です。何かあると、父に相談してみよう、と思っていて、あ、もういないんだ。。。と思うことが多々あります。
一時の悲しい気持ちが薄れてなんだか亡くなったのが事実ではなかった様な気がしてきます。
それに、あの頃の自分自身も一体どうやって毎日を過ごせて、瀕死の父を残して、スウェーデンに戻れたのだろう、と自分自身の気持ちもわからなくなります。
あの時、はたして私は父は亡くならず、良くなると思ったのだろうか。。。だから、ちょっとだけスウェーデンに戻ってまた来る、と父に言い残してスウェーデンに戻ったのだろうか。。。私は父が死ぬはずがないと思っていたのだろうか。父は私に戻るようにと願ったのだろうか。私が戻るのを待つようにしてなくなった父。「夜爪を切ると親の死に目に会えないぞ。」と言っていた父を思い出します。爪を夜に切ったことあるから父が亡くなるとき私はそばにいることができなかったのかなと思うことがあります。
でも、私ははたして、あの時のこって、父の最後に向き合うことができたのだろうか。。。
父が亡くなったということを考えないように、朝の仏さまにお茶をお供えしてお参りする時は父に向かって話すけれど、亡くなったという実感を考えないようにしていたのに、こうして書き始めると、涙があふれてくる。。。
どんなに辛い20日間を過ごしたのかと思うと、かわいそうでならない。何と強い人だったのだろうと思う。。。

夏休みには一人で日本へ行き、6週間の滞在をして、相続のこと、家のこと、色々な沢山の手続きをなんとか済ませて、母を天草への旅行にもつれていき、少し親孝行もできたようで、また、無事に初盆も済ませて、納骨もすることができました。
何十年ぶりかで東京の高校と小学校のクラス会にも出席することができました。

秋休みには2週間ではあったけれど謙とイヴを連れて、もう一度日本へ行って少し早めの1周忌を済ませることもできました。
この2週間は時間との戦いのようでしたが、予定していたすべてのことをなんとかこなして帰ることができました。

父の闘病の後半、また少しずつ綴っていこうと思います。
みんなが健康で幸せでありますように。
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# by obreykov | 2012-11-26 07:45 | 両親

2011.12.07. 父、少し熱がでる

母はデイサービスに行く前いつもしていた指輪などを入れていたケースがないと大騒ぎしていたのに、家に戻るとちゃんと指にしているので、不思議の国に来た様な気分になります。
佐賀の従兄弟とも「まるで不思議の国にいるようですね」とよく話します。叔母も何度も何度もご飯を炊くようで、あるものが無くなったと思えば、ひょっこりでてきているし、佐賀の不思議の国のアリスと熊本の不思議の国のアリス、というあだ名を付けたくらいです。

私は、母がデイサービスに出かけてからすぐに11時の面会に行きました。
相変わらずで、目はあまり開けないながらも、謙が携帯に送ってくれたニッキィの写真を見せるとよく目で追って見ていました。やっぱりわかるのでしょう。
14時の面会の後、私はバスで父の実家の方へ行き、お墓参りをしました。
祖父母や父の姉兄弟、そして父の娘である私の妹などに、なんとか父が苦しくないようにと頼みました。
18時の面会に行くと少し熱がでたので、原因を調べている最中だと医師から説明がありました。
熱がでたということはどこか炎症があるのか、肺炎が悪化したのか、よくないことばかりを考えてしまいます。
肺の水を取る装置はついたままですが、急に出してしまうとよくないそうで、少しずつ水を出すのだそうです。
父は胸にはいっている水を出すための管がきっと延命治療のためだと勘違いしているのではないかと思いました。すぐにそのような管を取り外そうとするそうで、手も時々縛り付けられてることもあります。
そんな姿を見るのは本当に辛いのですが、それだけ力もあるのかと思うとうれしいような。。。
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# by obreykov | 2012-06-17 08:57 | 両親

2011.12.06. 普通の人工呼吸にしてみたらしい

朝早く謙からニッキィの誕生日の時の写真が携帯に送ってきました。
朝のうち佐賀の従兄弟が再び車で来てくれて、ちょうど母もデイサービスがないので、病院に連れて行ってくれました。
先日彼が来てくれた時も目をあくことがなかったのですが、今回も目を開けてくれませんでした。
手は動かしていて従兄弟も手を握ってくれたり、話しかけてくれたり、私はニッキィの写真を見せたかったのに、とうとう目を開けなかったので見せることができませんでした。
先生が来て、私たちが行く前に30分ほど普通の人工呼吸器にして様子を見てみたことを知らせてくれました。
自分の力で呼吸ができるようになっていたら普通の人工呼吸器にするように方針を決めてくれたのでした。
もの凄い呼吸器は器械が無理に呼吸を指せている状態だそうで、私たちが車に乗って窓を開けたまま顔を出して口をあいている様な状態だと言うことでした。
でも、やはりまだ自分での呼吸が無理なようで、あのすごい人工呼吸器に戻されてしまったのでした。
それが苦しいのか、手で何度か呼吸器を取ろうという様な様子がうかがわれました。
苦しいのか、延命処置と勘違いしているのか。。。
3人で昼ご飯を外で食べて、従兄弟が母と私を家まで送ってくれて、お茶を飲みながらいろいろと話しました。
一人っ子の私にとって、こうして従兄弟が来てくれるのは本当に心強いものがあります。
特にこの従兄弟は東京で大学に通っていたので、そのころ私の家のすぐそばに下宿していてよく夜ご飯など食べにきていたから私にとってもかなり心強い従兄弟です。
しかも彼のお父さんは11月に亡くなり、お母さんは母と同じようにアルツハイマーがあり、状況が似ているので、いろいろな話をしました。
本家の従兄弟の息子も午後の面会に来てくれたようでした。
人間は元気な時はいつでも会えるという気持ちがあってなかなか会うこともなく過ごしてしまいますが、こうして誰かが病気になると普段会わなかった人たちとも会うことができます。もっと楽しい場面で会えたらよかったのにと思います。
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# by obreykov | 2012-06-17 08:44 | 両親

2011.12.05. ニッキィの誕生日に父もだいぶ回復か。

誕生日に近しい人が亡くなったり、近しい人の命日に誕生したりということがよくあるので、実を言うと私はニッキィの誕生日のこの日、父がどうかなってしまったらというわずかながらの不安がありました。12月1日の父の母親の命日は無事に乗り越えたので、本当にニッキィの誕生日はどうかと心配でしたが、母をデイサービスに送り出した後11時の面会に行きました。
本家の叔母と母の弟夫婦が面会に来てくれて父も目をうっすら開け、あーあーとしか言うことはできなかったけれど、私は父の回復に本当にほっとしました。
叔母たちと久しぶりに「鈴の屋」という日本料亭でお昼をご一緒しました。上品な鈴弁当で、久しぶりに美味しく食事がのどを通って行った気分でした。
午後にもう一度私一人で面会に行きました。
相変わらずの父の様子に安堵して、インターネットカフェに行き、メールのチェックなどをしてから夕方には戻りました。母も元気であまり父のこと、深刻に考えていないのはかえってよいのかと思いました。
父の担当の先生とも話し、父が延命治療を受けたくなかったことなど話して、もの凄い装備の人工呼吸器なども本人に苦痛になっていないのかなど訊きました。
本人にしかわからないけれど、苦痛はあるだろうということで、できるだけ痛い思い、苦しい思いをさせないでほしいことを頼みました。
現在父にしていることはあくまで治療であり、延命治療ではないこと、現在の日本では、この治療を取りやめることはできないことなどの説明がありました。私は、安楽死をしてあげてほしいと行っているのではありません。
ただ、父のように回復の見込みのない病気を抱えていて、苦しい思いをさせて1日1日延ばして行くより、痛い思い苦しい思いをさせない様な方法をとってほしいと願うのです。
回復の見込みがあるのなら、少々苦しい思いをしても、なんとか治療して治してもらいたいけれど、父が苦しそうにしているのを見るのは本当に辛いことでした。
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# by obreykov | 2012-06-17 08:30 | 両親

2011.12.04. だいぶ回復した父

母はデイサービスもない日曜日、友人の結婚式とかで私の従姉妹の長男しんちゃんが福岡の方から実家に帰ってきていたので、家にきてくれました。
この子は本家の長女の子供で、私たち親戚一同にとって初めての子供だったため、みんなからかわいがられていました。私も一番仲良く面倒を見てもらっていた従姉妹の子供なので、まるで自分の子供か弟が生まれた様なうれしさで、熊本に遊びにいくのが楽しみでなりませんでした。
私にもよくなついて、ついて回って、本当によく遊びました。「えみねえちゃん」と私をよんで、スウェーデンにも遊びにきました。私の父にとっても初孫と同様の感覚だったのでしょう。とてもかわいがっており、しんちゃんはみんなにとって特別な存在でした。
母も大喜びで、とにかく早速父の見舞いにいこうということになって、しんちゃんの車で病院へ向かいました。
金曜日の危篤の父が嘘のように、目もしっかり開けてその目で私たちを追い、手もしっかり握ってくれました。
しんちゃんが来たこともよくわかったようで、再び涙ぐんでいました。しんちゃんも父の涙を何度か拭き取ってくれました。「おじちゃん、よかったよかった」というとぎゅっと手を握ったそうで、しんちゃんも喜んでくれました。
14時の面会も住ませてから母をタクシーで返し、私はやっと安心して、ダイエーに行き、行きつけの美容室で髪をカットしてもらいました。ダイエーから電車で18時の面会にいきました。
胸の水も随分減って、炎症も少しよくなったと医師から知らされました。
私は、とにかく本人が苦しくないようにしてあげてくださいと何度も頼みました。
ちょうど、ニッキィもフリープログラムをうまく滑走したそうで、ジュニア初年で、前回のウプサーラでのエリート戦、ニッキィにとっては今シーズン初めての試合は4位に終わりましたが、今回は見事優勝したそうです。
父にもそれを伝えました。
父が少しもちなおしてくれると、私もやっと買い物などできる気分になり、夕食の買い物を済ませて戻りました。
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# by obreykov | 2012-04-11 05:57 | 両親

2011.12.03. 父もちなおす

ほとんど眠れない夜を過ごして、朝、8時になったので、面会時間ではなかったけれどICUに向かいました。入り口の電話で父の様子を訊くと「もちこたえて今は意識が戻っているのでどうぞ」と言われました。
私は天にも昇る気分で神様にお礼を言いたい感じで父のベッドへ急ぎました。
父の手を握り、「よかったよかった」と言いました。
11時の面会時間に再びいくと、ちょうど本家の兄嫁、つまり私の叔母とその娘と息子、従兄弟の次男と父の姉の娘、つまり私の従姉妹も面会に来てくれていました。
そのときは8時よりももっともちなおして、目も開けちゃんと手も出していました。
私がスウェーデンに来る時も反対していた父、それを仲立ちして助けてくれた従姉妹、従姉妹が父に「おじちゃん、私まちがったことしたのかなあ」というと手を出していました。従姉妹が誰にでも厳しかった父に「おじちゃん、またいろいろしかってよ、元気にまたおこってよ。」というと、本当、私だってまた父にしかってもらいたいと思いました。間違ったことが大嫌いだった父は自分の子供だろうと私の従姉妹従兄弟たちだろうと、ひどいときは家の近所で滑り台から石を滑らせて遊んでいるわんぱくものたちでさえ叱りつける様な厳しい人でした。
それがこんなにか細くやせ細ってしゃべることさえできなくなってしまうなんて。。。

14時の面会には母の弟夫婦も来てくれました。
叔母の声かけにちゃんと反応を示し、目も開けてもちなおしてくれたので、私はどんなにほっとしたことか。。。やっとものが口を通っていく様な気がして美味しくお茶を飲むことができました。
夕方には母をつれに家に戻り、18時の面会にいきました。
母のこともわかるのか目を開け、手を握ったり、「あーあー」と声も出してくれました。
そして、また、父の目から涙が。。。

ちょうど、スウェーデンでは今シーズンは膝の具合が悪くてほとんど試合に出ることができなかったニッキィがエリートシリーズのストックホルムでの試合に出場していました。
ネディの話では、ショートがとてもよくできて何と1位にいるという報告もあったので、父にもそのことを伝えました。明日のフリーは応援してね、というと手でぎゅっと私の手を握りました。

あまりにうれしくて、母と待合室で時間をつぶし、19時30分の面会もして帰りました。
料理など作る気分にも慣れず、母と二人病院の食堂でうどんを食べてタクシーで帰りました。
それにしてもよかった。。。神様本当にありがとう。。。
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# by obreykov | 2012-04-11 02:28 | 両親

2012.12.02. 父危篤

いつものように母をデイサービスに見送り、11時の面会に行こうと準備しているとしばらくして、病院から電話がありました。「国立病院です。」と言われた時は、心臓が凍る様な気がしました。
意識がなく、すぐにでもくることができるかというのです。
私はすぐにみつぐ苑に電話をして母を待機させてもらい、迎えにいきました。叔父叔母にも電話をして病院に来てもらいました。
全く反応がありません。
医師が、駄目かと思ったが少し状態が良くなり、意識はないが小康状態だ等説明してくれました。
どちらにしても週末でもあるため、私は銀行に行き、少し現金を用意することにしました。
母は叔父たちが家に連れて帰ってくれました。母がアルツハイマーが手伝ってか、あまり危機感がない様なのでかえって助かります。
私が銀行などに行ったりしている間、本家の父の兄嫁が14時の面会に来てくれたそうですが、そのときも反応がなかったそうです。
私は18時の面会にいきました。
前日は涙をこぼしたじゃない、どうしちゃったの、と語りかけるけれど、手も出さないし、目も開けないし、ただただ苦しそうな人工呼吸器の音だけが響きます。
あちらこちらのベッドでもピーピーと器械が鳴っていて、看護士たちが走り回ったり、本当にドラマでも見ているのか、と錯覚するほどでした。
医師は小康状態で、何とも言えないと言います。
このまま、残ってくださいとも何とも言えないと言います。それが本当のことなのでしょうけれど、私は一体どうしたらよいのでしょう。
連絡があって30分以内には来ることができる、ということをお互いに確かめ、とにかく私は母もそのままだったので、家に戻りました。
叔父たちが母と一緒にいてくれて、私たちは夕食をとり、叔父が帰る時に私は病院に送ってもらうことにしました。
こんな時でも人間はお腹がすくのが何とも不思議でした。
母は元々一人暮らしになれているし、心配ないというので、連れて行っても疲れさせるだけなので、私一人で向かいました。

完全看護の集中治療室のため、家族の泊まるところなんてありません。でも、家族用の控え室があり、看護士さんが案内してくれたので、そこにとりあえず泊まることにしました。
その日は大きな部屋に一家族いました。私は奥の小さい部屋に座りました。売店で買ってきた雑誌も見る気にもなれません。
部屋が暑くて、売店の方へ行き、飲み物を買いにいったりしました。
戻ると先ほどまでいた家族はいなくなっていたので、私は大きい部屋に一人座りました。ソファに長くなっても眠れるはずがありません。
外で足音がするたびに、看護士が私を呼びにきたかと思ってドキッとしました。
暑くて暑くて空調で一番低い温度にしたのに、息苦しいほど暑い感じでした。でも、父はもっと辛いのだろうと思いました。。。
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# by obreykov | 2012-04-11 02:07 | 両親

2011.12.01. 父の涙

12月1日は父の母、つまり私の祖母の祥月命日でした。
私は私の母方の祖母の祥月命日に生まれています。夫は誕生日に父親を亡くしています。叔父の誕生日に叔父の叔父が亡くなりました。ニッキィは夫の叔父の祥月命日に生まれました。
何か、こういうことって家族の中でつながっている様な気がして、私はこの日、12月1日、ニッキィの誕生日の5日、など、ちょっと気になる日にちでした。

この日は母をみつぐ苑のデイサービスに見送ったすぐあとに佐賀に住む父の妹の長男が駆けつけてくれました。
このいとこは大学生の頃東京の大学に行っており、下宿先が私の家のすぐそばだったこともあって、よくうちに食事に来ていたりして、歳も同じなことも手伝い従兄弟の中ではとても話しやすい頼りになる存在です。
しかも、父が一番愛した末っ子の妹の長男なので、私の父も私が嫉妬するほどかわいがっていました。
お茶を飲んでほとんどすぐに出かけ11時の面会をしました。
前日より、少しよくなっているのか、手など少し暖かくなっていました。
無意識のうちに苦しいからか、人工呼吸器や、胸から水を出すための管などをとろうとするためか、手はガーゼのグローブの様なものをかぶせられ、ベッドに固定されているのが何ともいたたまれませんでした。
でも、看護士さんたちの話では、それだけ力が出てきた証拠であるということで、私たちが来ているので、ガーゼのグローブは外してくれました。
せっかく従兄弟が来てくれているのに、目はとうとう開けませんでした。
でも、従兄弟の声かけに反応して、手をだし、従兄弟が握るとちゃんと握り返したようでした。

従兄弟の父親は実は11月9日に亡くなっています。
私は、熊本に行くたびに血はつながっていなかったけれどこの叔父が好きで必ず電話をしていました。
叔母はあまり体調が良くなく電話で話すこともなかったのですが、叔父とはかなり長話をして楽しいひと時を過ごしていました。夏に日本へ帰った時も叔父と北京経由で来て大変だったこと、叔父が大連にいた時代のこと、いろいろな話をしました。
「絵美子にもあいたいなあ」と叔父は言っていました。今度ゆっくり会えるよっていって、とうとう会いにいくこともなかったのですが、まさかあの叔父が亡くなってしまうなんて。。。叔母は父の妹で、母同様に少し惚けが始まっているようで、私は叔父を亡くして叔母ががっくりしてしまうのではないかととても心配していたのに、惚けが助けになって、あまりがっくり来ていないということでした。

叔父は癌だったのですが、最後は父と同じ人工呼吸器をしていたそうです。
これは極新しい人工呼吸器でかなり性能が良いらしく、ちょっと前だと挿管しなくてはならない状態だったそうで、ほぼそれと同様の効力のある人工呼吸器だそうです。
佐賀の病院にはその装置がなく、福岡の病院から借りてきていたそうです。
父の入院した熊本の国立病院は改装されて間もなく設備もすばらしいものでした。
まるで、ドラマの中にいる様な感じでした。
叔父の場合、会話もできる状態だったので、その人工呼吸器がとても辛いものであることなど話していたそうです。「お願いだから、今度寝たらもう起こさないでください。」とか「その人工呼吸器だけは辛いのでつけないでください。」などと言っていたそうです。
かわいそうに父はそんなことも言えず、ただただ辛そうな息をして寝ています。時々「あーあー」と辛そうな声も出していました。
医師や看護士も説明してくれなかったその装置こと、数値の見方なども従兄弟が説明してくれました。
自分では呼吸ができないので、機会が酸素を送るだけでなく二酸化炭素を出すように工夫されて、無理矢理呼吸をさせられているようでした。

従兄弟と私のことがわかったのでしょうか。父は手を出してくれました。
私が子供のときつないでくれた父の手はすっかりむくんで私の知っている父の手では亡くなっていました。
肩はこれ以上細くなれないというほどやせ細っています。

集中治療室は重病人ばかりで面会も時間が決められて長くいることもできないので、従兄弟とその場を立ち去りました。
二人で久しぶりに中華を食べにいきました。
従兄弟も自分の父親を亡くしたばかりなのに、私のことを気遣ってくれて本当に力になりした。

私の祖母は私たちが生まれた年は忙しかったとよく話していました。末娘のところにこの従兄弟が2月に生まれ、そうこうしているうちに春になると私が、夏になると父のすぐ上の姉のところにもう一人の従兄弟が生まれ、九州と東京を行ったり来たりしていたそうです。

従兄弟が私を家まで送ってくれ、しばらくするとデイサービスから母が戻ってきました。
母も自分とは血がつながっていなかったけれどこの従兄弟はとてもかわいがっていたので、大喜びでした。
従兄弟は佐賀まで帰らなくてはならないので、分かれ、私と母は18時の面会にいきました。
状態はほとんど同じでしたが、私たちが話しかけていると父の目から涙がにじんできました。
父の涙を見たのは初めてかも知れません。
ティッシュで拭ってあげました。でも、またしばらくすると父の目から涙が。。。
私たちがいることがわかったのでしょうか。何を言いたかったのでしょうか。

夏には悠長にに会話という訳にはいかないまでも、父とちゃんと会話を交わすことができました。でも今はこの父の涙で、私は一体何がわかるのでしょう。。。
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# by obreykov | 2012-04-11 01:49 | 両親

2011.11.30. 昨日とはうってかわって。。。

母がみつぐ苑のデイサービスに行ったあと母の一回り年下の弟、私が4歳の時から私の家で暮らしていた叔父なので、まるで一人っ子の私には歳の離れた兄の様な存在の叔父が私を迎えにきてみつぐ苑の父の荷物をとりにいくのを手伝ってくれました。
入院んをした時点で一時退所ということだそうです。
金曜日私が叔父から父が入院したという連絡をもらった日、呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたことなど説明を受けました。
どんなに辛かっただろうと思うと今更ながらかわいそうでなりません。
我慢強い人だったので、きっと我慢に我慢を重ねていたのでしょう。父が住んでいた「かき」の部屋からは荷物が出されており、父の着替えや身の回りのもの、そしてみつぐ苑に飾ってあった父が描いた油絵数点を持って帰りました。
父がよく子供たちを連れて行ってくれた温泉城の湯の隣のリンガーハットに叔父が連れて行ってくれました。
ここである夏食事しにいくと父の車に乗っかってきてしまった庭に住んでいたアオガエルがドアを開けたとたんに飛び出して、夫がそのままにしたら死んでしまうと、あわてて捕まえて車にいれ、家に連れ帰ったこともありました。そのアオガエルは長いこと庭の物干竿の穴に住んでいて毎年顔を出しているアオガエルの家族の一匹だったのです。
そんな思い出が走馬灯のようによみがえりました。父が元気な頃はよくここに子供たちをつれてきてくれていたなあ、と思いました。
そのあと私は14時の面会にいきました。
前日のあの元気な父とはうってかわって、反応はほとんどなく、手足も冷たくてとても心配になりました。
母はデイサービスから4時半すぎ頃にはもどるのですが、私は18時の面会もすることにして、少し買い物をしてどっとつかれたので、謙が気に入っていた喫茶店に入りました。一人でこんな喫茶店に入って抹茶オーレというものを注文し、心配でなんだか涙がぽろぽろとこぼれてしまいました。隣の席の外人男性がびっくりしていたようですが、変にああ、この人日本人じゃなくてよかった、と思いました。あれは一体どういう気持ちだったのでしょう。。。母にはもう一度だけ面会してから戻ると連絡をしました。
18時まで少し時間があったので、待合室で悲痛な感じで待っていると、私くらいの歳の三姉妹がお母さんの面会を待っていました。急な入院だったのか、あわてて面会に来た様な様子の方たちで、携帯の使い方などで姉妹で軽い言い争いをしているのが熊本弁で面白く感じ、心配で悲しかった私の心にちょっと暖かいものを感じました。また、こうして悲しみを分かち合える姉妹がいる人たちを本当にうらやましく思いました。
18時にもう一度面会にいきました。昼とは違って、ほんの少し反応がありました。少しだけ目を開けた様な開けないような。。。前日のあの様子は何だったのだろうと思うほど、状態が悪くなっていたので心配でしたが、少しだけ反応があったので、神様に祈るのみです。
主治医の先生や看護士さんたちはとてもよくしてくれているようでした。
でも、父がこんなに苦しんでいる様な感じで、人工呼吸器の音がとても苦しそうに響くので、先生が見回りに見えた時は「くるしいのですか?」 と訊きました。そんなこと元気な先生や私たちにわかるはずがないのに。
「とにかく本人が苦しくないようにしてあげてください。」と言いました。でも、それはどういうこと?
医師は今していることは延命治療ではなくこれはあくまで肺炎を起こしている治療だそうです。その治療のためにこの呼吸器をつけ、肺からほんの少しずつ水を吸い出し、そして水分と栄養分を補給しているということでした。
一体父はよくなるのだろうか。肺炎がよくなっても父のPSPという病気は治らないではないか。。。
今、少し治ったって、またこんなことの繰り返しで。。。と思うと不謹慎にも早く楽にさせてあげたい、と思ってしまいました。
ミミが亡くなった時は安定剤を打たれ、私たちと安らかなひとときを過ごし、最後に筋肉収縮剤を打たれ、本当に眠るように亡くなっていきました。
そんなこと父にしてもらおうとは思いませんでしたが、かといって、こんな苦しそうな呼吸器で飲まず食わずの状態で。。。見ているのが辛くてたまりませんでした。
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# by obreykov | 2012-04-10 10:39 | 両親

2011.11.29. 従兄弟が見舞いにきてくれた

私が時々日本に戻っても、何となくいつでも会えるという感じで、とうとう誰とも特に会わずに過ごしてしまうことが多かったのですが、今回は父が入院ということで、父の姉の息子が福岡から早速見舞いにきてくれました。
まずは私と母とで街に出て銀行へ行き、一部定期を解約したりしました。銀行関係はすべて父がしていたので、母は、ほとんど何もできないのです。銀行で従兄弟と待ち合わせました。
この従兄弟は私が一番大好きだった叔母の息子です。福岡大学にいたので、私たちが熊本へ遊びにいくと広い家、叔母一人で住んでいたから必ず、この叔母のところに泊まっていました。
夜遅くまでこの叔母と母と私の3人でテレビを見ながらいろいろな話をして、夜中になってテレビがしゃーしゃーと音を立てて放送が終わるまで話していました。私は子供だったのに、叔母と母の会話に一緒になって夜遅くまで起きていました。お墓参りに行く時はお嫁に出ていた叔母のお墓は本家の墓よりも大きいくらいだったので、よく叔母が「ここにはいるといいわよ。」なんて冗談で言っていたのですが、そんな叔母も早くも亡くなってしまい、従兄弟は早くに両親を亡くしてしまいました。
そんな思いをしたら、私なんて幸せだと思わなくてはなりません。
父と叔母は決して似ていた訳ではないのに、何故か私の従兄弟は私の父によく似ていました。
そして、今回待ち合わせたとき、向こうから歩いてくる従兄弟を見て本当にびっくりしました。歩き方から雰囲気から私の父にそっくりなのです。
まずは3人で鶴屋のレストランで食事をして14時の面会にいきました。
父は、私たちのことがよくわかったようで、目もしっかりと開け、手も出して従兄弟や母や私と交互に手を握り、「あーあー」と声も出して、うれしそうでした。顔も自分であちらを向いたりこちらを向いたりして、ベッドの両脇にいる私たちを交互に見ていました。
昨日より全然元気そうだ、と私は思い、とてもうれしい気分で家に帰りました。
タクシーで従兄弟も家に連れてきてゆっくり話しました。
このまま父が元気になる様なそんな嬉しい気持ちでいっぱいでした。人工呼吸器が少し苦しそうなのだけが気になりましたが、目もはっきりと開いて頭を右左に動かしていたので、本当にうれしく思いました。
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# by obreykov | 2012-04-10 10:02 | 両親

2011.11.28. 入院中の父と初めての対面

母は、いつも通りデイサービスに行ってもらいました。父に会いにいかなくては、という強い気持ちもない様なので、助かりました。9時半頃迎えにくるので、それを見送り、叔父夫婦が私を迎えにきてくれました。
国立病院のICUは、面会時間が11時、14時、18時、19時と4回でしかも一度は30分以内と決められています。
はいる時も手を消毒し、マスクをかけ、内線の電話で名前を名乗り、面会の許可を受けてから中に入るのです。
中に入ると、テレビの救命のドラマを見ているかと思うほど、ドラマの中のようでした。
沢山のベッドに瀕死の病人がずらっと並んでいました。これからみんな元気になっていくのか、あの世へ旅立っていくのか、なんだか、変に冷静な私でした。
叔父夫婦に案内され、父のベッドのそばまで行きました。24番のベッドよ、と教えられても、24番のベッドにはあまりに小さい人が横になっているので、一瞬、それが私の頼りになる父とはわかりませんでした。
子供が生まれてから父のことは「じっちゃ」母のことは「ばっちゃ」とよんでいました。ネディがそのようにやっと言葉が出る頃呼び始めたのがそのままになってしまったのです。
私は父と母を「パパ」「ママ」とよんでいました。でも、考えても見たらじっちゃばっちゃと呼ぶようになった方がパパママとよんでいた時間より長くなっていたのでした。
私は「じっちゃ!」と声をかけました。元々細かった人ですが、もう本当に小さくなってしまった父がうっすらと目を開けました。
私のことがわかったのでしょうか。
ネディから預かってきた写真を見せて、ネディの手紙を耳元で読んであげました。
ちゃんと聞こえたのでしょうか。
父はもの凄い装備の人工呼吸器をつけられ、もの凄く苦しそうな息をしていました。
胸からは肺の水を少しずつとるという装置をつけられていました。
担当の医師も来て、いろいろと説明をしてくれました。
延命治療をしないでほしいという本人の署名された書類があるが、とにかく娘がくるからそれまではなんとかしてほしいという親戚の意向でこのような装置をつけているという説明もありました。
私は父が元気で若い頃から、人の世話になってまで動けなくなってまで、生きていたくはない、延命措置などしないでほしいと言っていたのを良く知っているので、父の気持ちを尊重して延命はしない方針に同意しました。

いつもは日本へ行くと見るもの見るもの欲しくなるほどショッピングが楽しかったのに、今は何を見ても目に入らず、とりあえず、母と夕食をとれるように出来合いのお弁当やらお惣菜やらを買って家に戻りました。
母は元気そうに夕方デイサービスから戻ってきました。
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# by obreykov | 2012-03-12 08:25 | 両親

2011.11.25. 父の入院

2011年の11月25日早朝、日本では既に夕方、珍しく母の弟から電話があり、あとで電話をしてくれというので、「父のこと?」と訊くと、そうだというので、心配していたら、すぐに母からも電話がありました。
母の弟は母のところから母がトイレに行っている間を見計らって電話をしてきたのでした。母は結構しっかりして、父が肺炎を起こし、急遽入院したというのです。そのすぐあとに叔父に代わってもらい、いろいろきくととにかく入所していたみつぐ苑で父が呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたので、入院させようとしたけれど、どうしても入院したくないと言っていたので、ちょうどデイサービスに行っていた母をよんで説得してもらおうとしたらしいのです。母が「今死なれては困るのよねえ。。。」というと、父はすぐに納得して国立病院に即入院ということになり、母の弟、私の叔父がすぐに来てくれて入院の手続きをとり、夕方までかかったということでした。
私は「私もそちらに行った方がよいのかなあ。。。」と、叔父に言うと叔父は「そのほうがよいと思うよ。」と言いました。
夏に日本に行っていた頃、医師がPSPでは、最後には自分で嚥下できなくなり、誤嚥性の肺炎を起こした時は覚悟をした方がよいと言われました。
嚥下できなくなると、栄養補給は胃に管を通すようになるけれど、父は入所する際に胃に管を通したり、気管に管を通したりなどは決してしてほしくないという書類にサインをしていました。元気な頃から自分が病気などで駄目になる時は延命措置は決してしないでほしい、と言っていたのを私は良く知っているので、もう、だめか、と思ってしまいました。
すぐにチケットを手配しましたが、一番早く行ける便でも翌日の夕方の便でした。
ニッキィのスケートもやっとこれからエリート戦なども出て、スウェーデン全国選手権を控えていたので、トレーナーのターニャにも連絡をしました。
夜にはターニャも「こんな時間に電話して申し訳ないけれど、ニッキィの練習のためには私が迎えにいったり送っていったりできるから遠慮なく言ってほしい。」とまで言ってくれました。
自分も両親を亡くした経験があるからわかるけれど、人生はまだまだ続いていくのだから、強く受け止めすぎないように、子供もそして家族もいて、人生がまだまだ続いていくのだから、とも言われました。

26日の夕方の飛行機でフランクフルト経由で成田に到着して福岡、そして福岡から高速バスで熊本まで行きました。
私がついたのは27日、もう夜遅くなってから。。。
母は意外に元気そうで安心しました。
父の病状を受け止められないのか、事の重大さがわからないのか。。。

母は、私が2010年の夏にイヴとニッキィとで日本に行った際、ひょんなことからもう何年も前に亡くなっていた母の叔母のお見舞いにしばらく行っていない、なんて言い出したので、おかしいと思ったのでした。
庭仕事のこともいつも父がストックホルムに来た際にすべて庭仕事をしてくれていたのに、このごろ来てくれないから庭や植木がすごいことになっている、夫のよく手伝いにきてくれた友達のドブリも亡くなったし、などと話していると、ドブリも亡くなったの?などと、良く知っているはずのことなのに、まるで初めて知った様な言い方。。。
そのころデイサービスに行っていた父の方が、「しっかりしろよ、何言っているの?」などと笑っているくらいでした。
私は、その夏、田んぼのある道で転んでしまい、傷がなかなか治らず化膿したので、父と母のかかりつけの医者に見てもらっていました。そのとき母の様子を医師に説明し、心配していることを言いました。
ちょうど私たちが日本へ行く直前に母は街に買い物に行った際、エスカレーターから落ちて脚のすねをかなり切り、救急車で救急病院に運ばれたのでした。そのとき、頭もうったらしく、レントゲンなども撮ったけれど異常はなかったのでした。
でも、医師が内出血をして脳を圧迫している場合、たまに記憶が喪失する場合があるけれど、その出血を取り除けば元通りになるから、CTスキャンをとってみましょう、ということで、CTスキャンをとってもらいました。
しかし、何の内出血も見つけることができませんでした。
そこで、MRIをすることになりました。
すると、まだ初期段階ではあるけれど明らかにアルツハイマーの脳の萎縮が見られることが診断されました。
それで、母も介護保険の認定を受けることにして、父が入所するから一人暮らしになるし、父に会いにいくということも含めて、と母に話して、母もデイサービスを受けることができるようにしたのでした。
母は至って元気で、普段通り明るく人との関わりもとてもよく、他人が見たら、全く正常な元気なおばあさんという感じです。でも、一緒に生活するとやはり、つい先ほどの記憶が途絶えているのがわかり、同じことを何度も訊いたり、同じものを何度も買ったり、という感じでした。
でも、それがゆえ、父の病状が大変な状態であることをきちんと理解できないのか、それもそれでよかったのか、という感じでした。
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# by obreykov | 2012-03-12 08:06 | 両親

父の病気

はじめは脳の収縮が見られるのでアルツハイマーだと診断された父でしたが、記憶がどうかすると私たちなどよりよほどしっかりしているので、おかしいなと思っていました。
あとで父の病気はPSP(進行性核上性麻痺)という10万人に数名というまれに見る病気だったことがわかりました。運動を司る脳の収縮が見られるために運動、および内蔵の運動機能が低下して、転倒しやすくなったり、うまくしゃべることができなくなったり、さらには誤嚥などが生じてくるという難病でした。
気位が高く、人の世話になることなどできない性格のまじめな父でしたから、あの当時の葛藤は相当なものだったのだろうと今にして思えば、気の毒でなりません。
転倒が多くなり、お風呂場から出てくることができなくなった時は細い父でしたが、さすがの母も助けるのがとても困難で、これでは心配だということでかかりつけの先生がケアマネージャーと相談して要介護の申請をしてくれました。
人に頼ることが嫌いで、人に頼られる様な人だったので、介護保険がもらえても果たしてデイサービスに通うようになってくれるだろうか、と私たちは心配しておりました。
ところが、とても喜んで第一日目が終わり、それからは週に3回デイサービスに通うようになったので、私たちはびっくりすると同時に母もゆっくりする時間ができたし、入浴を家出しなくて住むようになったのが何よりの助けでした。
毎年3ヶ月スウェーデンに来ていた父と母でした。どうかすると冬も夏も来たりしていたのですが、2006年仁木て、一緒にブルガリアに行ったのが父のヨーロッパ訪問の最後になってしまいました。
ブルガリアには3つマンションがあるのですが、その一つは父と母がいつでも使ってよいと夫が言って二人専用にしてあげたのに、結局は一夏しか使わずに終わってしまいました。
その年は、先代のゴールデンのミミともよく散歩をしていましたが、ゆっくりゆっくり歩いていたのを思い出すとあの頃から病気は始まっていたのかもしれません。
2007年の夏にはネディと謙は東京に行っており、その間1週間熊本にやってきました。私とイヴとニッキィは熊本へ行きましたが、そのときも今思えば出不精になっており、お祭りなども一緒に行こうともしませんでした。
きっとあの頃から身体も辛くなっていたのでしょう。
2008年には父もこちらには来ないというので、私たちはブルガリアに行きました。ネディだけが秋に熊本に行きました。そのときネディとぼした祭りなどに行ったり、映画を見に行ったりしたというので本当にびっくりしました。
そしてその年父がかわいがっていたミミちゃんも亡くなってしまったのでした。
2009年の始めには母が風邪をこじらせ肺炎を起こし、ほとんど死にかけていて私は急遽熊本に帰ったのでしたが、そのときの父を思い出すと、私の知っている父ではなくなっていた感じがして本当にびっくりする矢ら悲しくなるやらで、一人でお墓参りに行きながらお墓の前でわんわん泣いてしまったのを思い出します。
あの頃の父は自分でも身体のいうことがうまくきかなくなっている自分にどう対処してよいかわからず、きっともの凄い葛藤のなかにいたことだろうと思います。
母のお葬式かと覚悟していったけれどなんとか回復してくれて、本当によかったのですが、その頃から両親がすっかり歳をとってしまったのを自覚せざるを得なくなりました。
そして、毎年避暑をかねてきていた両親もこちらに来る元気がなくなったのか、私たちが日本へ行くようになりました。
そのころから父のデイサービスも始まりよく2010年に熊本に行った時はすっかりデイサービスに慣れていた父でした。転倒も多くなったので、何度びっくりしたことか知れませんが、イヴとニッキィは父にとっては自分が世話をしてあげる小さい孫と言う気持ちがあるのか、イヴもすっかり大きくなっているのに、イヴの手を借りたりしようとせず、その辺がやはり気位の高い人だ、と思いました。
秋になると父の転倒が頻度を増してきて、母一人ではとても大変な状況になってきて、少しずつショートステイというサービスを受けるようになりました。
母が一人になって心配でしたが、思ったより元気に過ごしていたし、何よりも父が家で転倒したりする心配が亡くなったのが何よりでした。
秋休みには謙を連れて2週間でしたが、熊本へ行きました。
すぐに父を迎えにいきました。
謙を見た時の父の喜んだ顔は今でも忘れられません。
父にとって初めての男の子で自分の名前をとった謙には特別の感情もあったでしょうし、大人になっている謙には心を開いて私や母には決して助けを求めなかったのに、謙には腕を借り、ベッドから起きるのも転倒した時に起こしてもらうにも、またトイレに行くにもベッド脇においてあるトイレに移動するにも謙の助けを借りてくれました。
謙も元々心の優しい子なので、それはよくしてくれました。私や母ができないことを彼がちゃんとしてくれたので、私は謙をどんなに頼もしく思ったことか。。。それは父にしても同様だったと思います。
私たちが熊本に行くと必ず行く近所の養鱒場の料亭に行きました。
そのとき初めておじいさんと孫が晩酌しました。
大酒飲みではなかったけれどお酒を嗜むのが好きな父に似て謙もアルコールには強いようで、二人楽しそうに飲んでいました。男の子が欲しかった父は、本当にうれしかっただろうと思います。
それが最初で最後の話が孫との晩酌となってしまいました。
そして、デイサービスのみつぐ苑で入所できるようになったので、11月から入所をすることになりました。
それも不思議なように父が承知して、入所する日も私や謙や母と一緒に家を出て、まるでどこかへでかけるがごとく、極自然に家を出て、そして2度と父の愛した父が建てた沢山の父の植木のある花園の家に戻ることはなかったのです。
翌2011年の夏にはぜひ父を家に戻してあげたくて、ほかの子は足手まといになるだけだろうと思って我慢してもらい謙と私だけで熊本に行きました。
でも、そのころの父の様子を一目見ただけで、家での生活は全く不可能だということがわかり、誰も父に戻ろうとも言わなかったし、また、父もそのことがよくわかっていて、「家に戻りたい」とは言わなかったのだと思います。
でもたどたどしくも私たちが「会いにきてくれるのが一番うれしい」「せっかく来てくれたのに何もしてあげられなくて申し訳ない」などと言っていました。
謙がパソコンを持っていき、昔のビデオを見せてあげると、それこそ20数年前にまだネディが赤ん坊の頃ストックホルムの島の別荘で数家族集まってザリガニパーティーをしている時、みんなで酔っぱらってそれぞれが歌を歌ったりして大騒ぎしているビデオなどうれしそうに見て歌の上手だった父が酔って「君が代」などを歌っているところなど2度も見ながら一緒に歌っていました。
もう一度、家に戻してあげたかったけれど、一度戻ったらよけい辛くなったかもしれないと思って、私もどうしてよいかわからない感じでした。
母は「よほど居心地がよいのか、帰りたいって言わないのよ。」など言っていましたが、私は父が自分の病状を知っていて家での生活はたとえ1日でもかなり困難であることをよく理解して帰りたいと言わないのだということがよくわかりました。
自分でできるだけ食事もとるようにしていたようですが、謙に手伝ってもらったりして車椅子も押してもらって、子供が生まれたとき父がどの子も私の従兄弟たちも含めて沐浴させ寝かしつけて遊ばせていたのに、今はその孫たちが父の世話をするのか。。。と思いました。
謙は私より一足先にスウェーデンに帰ったので、果たして私の手を借りるかと心配していましたが、謙がいないので、私にも車椅子を押させたり、靴を脱いだりはいたり、また食後手などをぬれタオルで福野を手伝わせてくれました。父は手が汚れているのがとても嫌いな人で、手が汚れるからといってあまりオレンジやぶどうなど食べるのが嫌だったくらいだったので、少しでも手がべたべたしているのが嫌な人だったのです。

ああ、でも私はこんな年になっても両親がいたし、4人の子供にも恵まれ、毎年両親も来てくれ、幸せだったと思わなくてはならないかもしれません。私の両親は今の私の歳にはもう、自分たちの両親はいなかったのですから。。。また、我が子も2歳で失っていたのですから。。。

これが2011年の夏でした。
そして11月25日に父が誤嚥性の肺炎になり、急遽入院したという知らせがあり、私はすぐに飛行機のチケットをとり日本へ向かいました。
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# by obreykov | 2012-03-11 09:06 | 両親