父の病気

はじめは脳の収縮が見られるのでアルツハイマーだと診断された父でしたが、記憶がどうかすると私たちなどよりよほどしっかりしているので、おかしいなと思っていました。
あとで父の病気はPSP(進行性核上性麻痺)という10万人に数名というまれに見る病気だったことがわかりました。運動を司る脳の収縮が見られるために運動、および内蔵の運動機能が低下して、転倒しやすくなったり、うまくしゃべることができなくなったり、さらには誤嚥などが生じてくるという難病でした。
気位が高く、人の世話になることなどできない性格のまじめな父でしたから、あの当時の葛藤は相当なものだったのだろうと今にして思えば、気の毒でなりません。
転倒が多くなり、お風呂場から出てくることができなくなった時は細い父でしたが、さすがの母も助けるのがとても困難で、これでは心配だということでかかりつけの先生がケアマネージャーと相談して要介護の申請をしてくれました。
人に頼ることが嫌いで、人に頼られる様な人だったので、介護保険がもらえても果たしてデイサービスに通うようになってくれるだろうか、と私たちは心配しておりました。
ところが、とても喜んで第一日目が終わり、それからは週に3回デイサービスに通うようになったので、私たちはびっくりすると同時に母もゆっくりする時間ができたし、入浴を家出しなくて住むようになったのが何よりの助けでした。
毎年3ヶ月スウェーデンに来ていた父と母でした。どうかすると冬も夏も来たりしていたのですが、2006年仁木て、一緒にブルガリアに行ったのが父のヨーロッパ訪問の最後になってしまいました。
ブルガリアには3つマンションがあるのですが、その一つは父と母がいつでも使ってよいと夫が言って二人専用にしてあげたのに、結局は一夏しか使わずに終わってしまいました。
その年は、先代のゴールデンのミミともよく散歩をしていましたが、ゆっくりゆっくり歩いていたのを思い出すとあの頃から病気は始まっていたのかもしれません。
2007年の夏にはネディと謙は東京に行っており、その間1週間熊本にやってきました。私とイヴとニッキィは熊本へ行きましたが、そのときも今思えば出不精になっており、お祭りなども一緒に行こうともしませんでした。
きっとあの頃から身体も辛くなっていたのでしょう。
2008年には父もこちらには来ないというので、私たちはブルガリアに行きました。ネディだけが秋に熊本に行きました。そのときネディとぼした祭りなどに行ったり、映画を見に行ったりしたというので本当にびっくりしました。
そしてその年父がかわいがっていたミミちゃんも亡くなってしまったのでした。
2009年の始めには母が風邪をこじらせ肺炎を起こし、ほとんど死にかけていて私は急遽熊本に帰ったのでしたが、そのときの父を思い出すと、私の知っている父ではなくなっていた感じがして本当にびっくりする矢ら悲しくなるやらで、一人でお墓参りに行きながらお墓の前でわんわん泣いてしまったのを思い出します。
あの頃の父は自分でも身体のいうことがうまくきかなくなっている自分にどう対処してよいかわからず、きっともの凄い葛藤のなかにいたことだろうと思います。
母のお葬式かと覚悟していったけれどなんとか回復してくれて、本当によかったのですが、その頃から両親がすっかり歳をとってしまったのを自覚せざるを得なくなりました。
そして、毎年避暑をかねてきていた両親もこちらに来る元気がなくなったのか、私たちが日本へ行くようになりました。
そのころから父のデイサービスも始まりよく2010年に熊本に行った時はすっかりデイサービスに慣れていた父でした。転倒も多くなったので、何度びっくりしたことか知れませんが、イヴとニッキィは父にとっては自分が世話をしてあげる小さい孫と言う気持ちがあるのか、イヴもすっかり大きくなっているのに、イヴの手を借りたりしようとせず、その辺がやはり気位の高い人だ、と思いました。
秋になると父の転倒が頻度を増してきて、母一人ではとても大変な状況になってきて、少しずつショートステイというサービスを受けるようになりました。
母が一人になって心配でしたが、思ったより元気に過ごしていたし、何よりも父が家で転倒したりする心配が亡くなったのが何よりでした。
秋休みには謙を連れて2週間でしたが、熊本へ行きました。
すぐに父を迎えにいきました。
謙を見た時の父の喜んだ顔は今でも忘れられません。
父にとって初めての男の子で自分の名前をとった謙には特別の感情もあったでしょうし、大人になっている謙には心を開いて私や母には決して助けを求めなかったのに、謙には腕を借り、ベッドから起きるのも転倒した時に起こしてもらうにも、またトイレに行くにもベッド脇においてあるトイレに移動するにも謙の助けを借りてくれました。
謙も元々心の優しい子なので、それはよくしてくれました。私や母ができないことを彼がちゃんとしてくれたので、私は謙をどんなに頼もしく思ったことか。。。それは父にしても同様だったと思います。
私たちが熊本に行くと必ず行く近所の養鱒場の料亭に行きました。
そのとき初めておじいさんと孫が晩酌しました。
大酒飲みではなかったけれどお酒を嗜むのが好きな父に似て謙もアルコールには強いようで、二人楽しそうに飲んでいました。男の子が欲しかった父は、本当にうれしかっただろうと思います。
それが最初で最後の話が孫との晩酌となってしまいました。
そして、デイサービスのみつぐ苑で入所できるようになったので、11月から入所をすることになりました。
それも不思議なように父が承知して、入所する日も私や謙や母と一緒に家を出て、まるでどこかへでかけるがごとく、極自然に家を出て、そして2度と父の愛した父が建てた沢山の父の植木のある花園の家に戻ることはなかったのです。
翌2011年の夏にはぜひ父を家に戻してあげたくて、ほかの子は足手まといになるだけだろうと思って我慢してもらい謙と私だけで熊本に行きました。
でも、そのころの父の様子を一目見ただけで、家での生活は全く不可能だということがわかり、誰も父に戻ろうとも言わなかったし、また、父もそのことがよくわかっていて、「家に戻りたい」とは言わなかったのだと思います。
でもたどたどしくも私たちが「会いにきてくれるのが一番うれしい」「せっかく来てくれたのに何もしてあげられなくて申し訳ない」などと言っていました。
謙がパソコンを持っていき、昔のビデオを見せてあげると、それこそ20数年前にまだネディが赤ん坊の頃ストックホルムの島の別荘で数家族集まってザリガニパーティーをしている時、みんなで酔っぱらってそれぞれが歌を歌ったりして大騒ぎしているビデオなどうれしそうに見て歌の上手だった父が酔って「君が代」などを歌っているところなど2度も見ながら一緒に歌っていました。
もう一度、家に戻してあげたかったけれど、一度戻ったらよけい辛くなったかもしれないと思って、私もどうしてよいかわからない感じでした。
母は「よほど居心地がよいのか、帰りたいって言わないのよ。」など言っていましたが、私は父が自分の病状を知っていて家での生活はたとえ1日でもかなり困難であることをよく理解して帰りたいと言わないのだということがよくわかりました。
自分でできるだけ食事もとるようにしていたようですが、謙に手伝ってもらったりして車椅子も押してもらって、子供が生まれたとき父がどの子も私の従兄弟たちも含めて沐浴させ寝かしつけて遊ばせていたのに、今はその孫たちが父の世話をするのか。。。と思いました。
謙は私より一足先にスウェーデンに帰ったので、果たして私の手を借りるかと心配していましたが、謙がいないので、私にも車椅子を押させたり、靴を脱いだりはいたり、また食後手などをぬれタオルで福野を手伝わせてくれました。父は手が汚れているのがとても嫌いな人で、手が汚れるからといってあまりオレンジやぶどうなど食べるのが嫌だったくらいだったので、少しでも手がべたべたしているのが嫌な人だったのです。

ああ、でも私はこんな年になっても両親がいたし、4人の子供にも恵まれ、毎年両親も来てくれ、幸せだったと思わなくてはならないかもしれません。私の両親は今の私の歳にはもう、自分たちの両親はいなかったのですから。。。また、我が子も2歳で失っていたのですから。。。

これが2011年の夏でした。
そして11月25日に父が誤嚥性の肺炎になり、急遽入院したという知らせがあり、私はすぐに飛行機のチケットをとり日本へ向かいました。
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by obreykov | 2012-03-11 09:06 | 両親
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