2011.11.30. 昨日とはうってかわって。。。

母がみつぐ苑のデイサービスに行ったあと母の一回り年下の弟、私が4歳の時から私の家で暮らしていた叔父なので、まるで一人っ子の私には歳の離れた兄の様な存在の叔父が私を迎えにきてみつぐ苑の父の荷物をとりにいくのを手伝ってくれました。
入院んをした時点で一時退所ということだそうです。
金曜日私が叔父から父が入院したという連絡をもらった日、呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたことなど説明を受けました。
どんなに辛かっただろうと思うと今更ながらかわいそうでなりません。
我慢強い人だったので、きっと我慢に我慢を重ねていたのでしょう。父が住んでいた「かき」の部屋からは荷物が出されており、父の着替えや身の回りのもの、そしてみつぐ苑に飾ってあった父が描いた油絵数点を持って帰りました。
父がよく子供たちを連れて行ってくれた温泉城の湯の隣のリンガーハットに叔父が連れて行ってくれました。
ここである夏食事しにいくと父の車に乗っかってきてしまった庭に住んでいたアオガエルがドアを開けたとたんに飛び出して、夫がそのままにしたら死んでしまうと、あわてて捕まえて車にいれ、家に連れ帰ったこともありました。そのアオガエルは長いこと庭の物干竿の穴に住んでいて毎年顔を出しているアオガエルの家族の一匹だったのです。
そんな思い出が走馬灯のようによみがえりました。父が元気な頃はよくここに子供たちをつれてきてくれていたなあ、と思いました。
そのあと私は14時の面会にいきました。
前日のあの元気な父とはうってかわって、反応はほとんどなく、手足も冷たくてとても心配になりました。
母はデイサービスから4時半すぎ頃にはもどるのですが、私は18時の面会もすることにして、少し買い物をしてどっとつかれたので、謙が気に入っていた喫茶店に入りました。一人でこんな喫茶店に入って抹茶オーレというものを注文し、心配でなんだか涙がぽろぽろとこぼれてしまいました。隣の席の外人男性がびっくりしていたようですが、変にああ、この人日本人じゃなくてよかった、と思いました。あれは一体どういう気持ちだったのでしょう。。。母にはもう一度だけ面会してから戻ると連絡をしました。
18時まで少し時間があったので、待合室で悲痛な感じで待っていると、私くらいの歳の三姉妹がお母さんの面会を待っていました。急な入院だったのか、あわてて面会に来た様な様子の方たちで、携帯の使い方などで姉妹で軽い言い争いをしているのが熊本弁で面白く感じ、心配で悲しかった私の心にちょっと暖かいものを感じました。また、こうして悲しみを分かち合える姉妹がいる人たちを本当にうらやましく思いました。
18時にもう一度面会にいきました。昼とは違って、ほんの少し反応がありました。少しだけ目を開けた様な開けないような。。。前日のあの様子は何だったのだろうと思うほど、状態が悪くなっていたので心配でしたが、少しだけ反応があったので、神様に祈るのみです。
主治医の先生や看護士さんたちはとてもよくしてくれているようでした。
でも、父がこんなに苦しんでいる様な感じで、人工呼吸器の音がとても苦しそうに響くので、先生が見回りに見えた時は「くるしいのですか?」 と訊きました。そんなこと元気な先生や私たちにわかるはずがないのに。
「とにかく本人が苦しくないようにしてあげてください。」と言いました。でも、それはどういうこと?
医師は今していることは延命治療ではなくこれはあくまで肺炎を起こしている治療だそうです。その治療のためにこの呼吸器をつけ、肺からほんの少しずつ水を吸い出し、そして水分と栄養分を補給しているということでした。
一体父はよくなるのだろうか。肺炎がよくなっても父のPSPという病気は治らないではないか。。。
今、少し治ったって、またこんなことの繰り返しで。。。と思うと不謹慎にも早く楽にさせてあげたい、と思ってしまいました。
ミミが亡くなった時は安定剤を打たれ、私たちと安らかなひとときを過ごし、最後に筋肉収縮剤を打たれ、本当に眠るように亡くなっていきました。
そんなこと父にしてもらおうとは思いませんでしたが、かといって、こんな苦しそうな呼吸器で飲まず食わずの状態で。。。見ているのが辛くてたまりませんでした。
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by obreykov | 2012-04-10 10:39 | 両親
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