徒然日記スウェーデン
2020-04-28T07:21:27+09:00
obreykov
6人家族のスウェーデンでの日々の出来事
Excite Blog
2020.04.28. あっという間に2020年も4月末
http://hemidagbok.exblog.jp/240271375/
2020-04-28T07:21:00+09:00
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obreykov
徒然なる生活
最後に書いた日は、ネディの子供の誕生でした。おかげさまで元気にすくすく育って、3人の叔父さんの甥っ子に対する愛情がここまで大きいとは想像もしていませんでした。
女の人が小さい姪甥に夢中になるのはわかる気がするけれど、まあ、我が家の男の子3人のルウちゃん(って呼んでいます。)への愛情はものすごいものです。
この頃では三人の名前も覚えた様で、まずはじめにはイヴという様になって、ネディが写真を指さすと、それぞれの名前を言う様になったので大きな一歩です。
夫がなくなってはや5年が経ちました。
つい先日の様な、というより、なんだかどこかに出張にでも行っている様な。。。ずいぶん帰ってこないな、という様な。。。
ブルガリアのビルもあちこち傷んできているようで、結構大きな改装工事が必要になりました。夫の姪はこんな大金を出す必要はないと反対でしたが、今回思い切ってきちんと改装することにしました。
これは、子供たちとよく相談して夫の親友にも相談して決めました。
今、世界ではコロナウィルスCovid-19なるもので、外出禁止令が出たりしているところも多々ある中、日本とスウェーデンはどうやら別の路線で行っている様です。
とはいえ、中には自主的に外出をしない人もいて、私の務める文化学校では、オンラインのレッスンも取り入れる様に3月からなりました。
おかげで、私のストレスと疲れは2倍というより5倍も6倍もで、コロナに感染する前に、ストレスでどうにかなってしまいそうな感じがします。だいぶオンラインレッスンにも慣れてはきましたが、仕事量は普段の数倍多くなります。生徒ごとにメモをしたり、注意書きを入れた楽譜を送ったり、小さい生徒には見本のビデオを作ってシェアしてあげたりと、本当に夜遅くまで学校に残ったり、早く帰っても帰ってから自宅で仕事の続きをしたりと、本当に疲れます。性格上ほどほどにしておけないのが原因なのはわかっておりますが。。。
さて、このブログ、また今度はいつ書くかわからないけれど、消滅していなくて本当によかった!
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2018.10.08 もっとずっとずっと書いていなかった
http://hemidagbok.exblog.jp/238796238/
2018-10-08T07:39:00+09:00
2018-10-08T07:39:01+09:00
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obreykov
徒然なる生活
仕事は大変だけど、仕事場にいると余計なこと考えなくて済むのが助かります。やる気のある良い生徒にも恵まれて、そんな生徒たちと合奏をするのは、何よりも楽しい。また、大変ではあるけれどヴァイオリンなどの生徒の伴奏もなかなか楽しい。
悲しいことばかりだったような気がするけれど、ネディに赤ちゃんができました。8月18日の8時という、エイトマンで、やっと名前も決まりました。男の子だったら、パパの名前をミドルネームにすると言っていたネディ。パパの月命日に生まれてきた天使は手の表情がパパそっくりとイヴが言ったほどよく似ています。
1ヶ月半経った今は起きている時間も多くなってきて先週あたりからよく笑うようになりました。
みんなが健康で過ごせますように。
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ずっと書いていなかった
http://hemidagbok.exblog.jp/21686672/
2015-09-28T07:05:35+09:00
2015-09-28T07:05:36+09:00
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obreykov
未分類
この数年で、インターネットの生活も変わってきて、パソコンより携帯やiPadなどを使うようになって、Facebookだのinstagramだのと携帯などで便利なものもたくさん出てきて、改まってブログを書いたり読んだりしなくなってしまったのでした。
思えば色々あったこの2年間。
一番大きな出来事はこのブログのサブタイトル的な家族6人のっていうところが5人になってしまった。。。大黒柱がこの春、天国にいっちゃって。。。
といっても、なんだか実感わかないのですが。
今頃は父と会っているのかな、この世の人じゃなくなったら外国語も何もなくなって話が通じているのかな。などと思う今日この頃です。
このブログの写真も古いまんま。でも変えるのもなんだか心寂しいような。。。ま、このままでいいか。男の子たちはパパよりも大きくなっちゃっているし、謙は街に小さなマンション買って一人暮らし。ちょっと遠いところの大学の学生アパートに住んでいたネディもこの夏卒業してとりあえずうちに戻ってきました。
オーストラリアの音大に留学していたイヴはパパの病気をきっかけに休学届けを出して戻ってきたまま。もうオーストラリアには戻らない様子です。そのほうが私は嬉しいけれど。
大変な2015年でした。これでもか、これでもか、というように私の前に困難や大変なことが次々と。でも父がいっていたように私はかなり強い女なのか、なんとか、なんとか、ここまでやってきた。頑張っているわけじゃないけれど、とにかく前を向いて進むしかない。
健康第一でいこう!
仕事があってよかったとつくづく思います。仕事場に行って忙しくしているとあっという間に1週間がすぎ、余計なこと考える時間がなくて済みます。
今日はとても懐かしい方からメールをいただいて、なんだか、心がぱあっと晴れてきたような気分になってきました。だから、こうしてブログを書いてみました。ありがとう、懐かしい素敵な方!]]>
2013.06.28. あっという間に時がすぎ。。。
http://hemidagbok.exblog.jp/18009986/
2013-06-28T19:45:32+09:00
2013-06-28T19:45:06+09:00
2013-06-28T19:45:06+09:00
obreykov
徒然なる生活
自分でもびっくり。
はてさて、この半年何をしていたのだろう。あれよあれよと言う間に時が過ぎて雪世界から気がつくと夏至祭りもおえ、辺り一杯緑の世界。
2月末には昨年のクラス会で中学校を卒業して以来初めて再会した幼なじみの秀才君が癌で亡くなってしまいました。人の命ってあっけないものです。
また、つい先日一緒に仕事してそのときは元気いっぱいだったコントラバス、ベース奏者が脳溢血で倒れ、療養中。。。今日一日一日を大切に生きなくてはとつくづく思いますが、つい忘れてしまいます。。。
スケートの方も昨日合宿を終え、ニッキィもトレーナーも3週間の夏休みとなりました。
庭の木が大きくなりすぎて、パラボラアンテナの障害になり、サテライトの番組が写らないようになってきたので、大きな木一本は下からざっくりと切り、他の3本は上の方の枝を落としてもらいました。
今は夏休みになっているスウェーデンは働いてくれる人を探すのが大変ですが、とても感じの良いしかもイケメンのお兄さんが二人来て8時からお昼までかかって木を切ってくれました。
ついでに、その数日前にイヴと私とで家の前のもみの木の下の方の枝を落としたので、それも持っていってもらいました。それにしても木は植わっている時はそんな量にみえないけれど、ほんの少し落とした枝のつもりでも、もの凄い量になるので、びっくりします。
さて、今日は島の別荘、といっても私たちは利用する時期がほとんどないので、貸しているのですが、テレビが調子悪いようで、新しいのを購入したので、それを運ぶことにしたようです。
パパとその友人とイヴとで運ぶようですが、ニッキィがほとんど別荘のことを覚えていない様なので、ニッキィも一緒に行こうと行っていますがどうなることやら。。。
昨日は謙が久しぶり置いてある洋服等取りにかえってきました。遅くなってしまい、泊まっていき、今朝仕事に送り出しました。
一人暮らしをしていると、私への思いやりも前より大きくなってくれるようです。
そうそう、謙は友達のお母さんのマンションをとてもやすく借りていたのですが、マンションが水害(水漏れ)で工事が入り、一時、我が家に戻っていたのですが、晴れて3月1日付けで自分のマンションを購入しました。
ストックホルム中心地の高級住宅地に狭いワンルームではあるけれど自分の城を築き、一家の主となりました。
ネディも学校からちょっと離れている小さい学生アパートから街の中心地で学校からもすぐ近くの少し大きい学生アパートに春から移ることができました。そのかわり家賃はかなり高くなったようですが。。。
今日はとてもよい天気になり、20度ほどですが、風もなく程よい日和です。
やることが山のようにあるはずなのに、どこから手を付けて良いかわからない状態。。。
この日記もとにかく今日は書いてみたけれど、果たして続けて書けるかどうかもわからない状態。
ま、ゆっくりできる時にできることをやっていこう。。。
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2013.01.12. LKF杯優勝おめでとう
http://hemidagbok.exblog.jp/17196796/
2013-01-23T01:25:17+09:00
2013-01-23T01:25:05+09:00
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obreykov
フィギュアスケート
ノーヴィスの選手の頃は時々同じ日にショートもフリーも試合をしてしまうというスケジュールもありましたが、ジュニアの男子も今回はそういうスケジュールが組まれていました。
何と朝の9時の試合。ということは8時には会場へ行かなくてはなりません。ホテルから会場までは歩いていける距離なのですが、あまりに寒かったので、私が車で送っていきました。
あまりに早いので観客さえほとんどいません。
ジュニアの男子は5人だったので、1グループしかありませんでした。
SM(スウェーデン選手権)の時の様に私はドキドキしていませんでした。ニッキィはどうだったのでしょう。。。
ミスのない滑走ができますようにとそればかりを祈りながら観戦しました。
すると、小さなミスはありましたが、52.12という、自己最高点をもらうことができました。SMの時は大失敗をしてとても辛く大変な思いをしたので、まずまずのスタートでした。
その後の試合も見たかったのですが、私も前日もその前からの寝不足があったので、皆でホテルに戻り、休みました。
私はトレーナーと昼食に街に出てニッキィはほかの選手と昼食をとったようでした。
ホテルも親切で15時までチェックアウトをのばしてくれたので、ニッキィもゆっくり休めたようでした。
そして再び17時からのフリーへ!
3回転3回転という連続ジャンプも成功して98.95という自己最高点を頂きました。総合で151.07でこれも自己記録を更新。2位の選手とは27点も差をつけての優勝でした。
日本のフィギュア界にはまだまだ追いつけませんが、ニッキィなりの良い滑走ができて本当に良かったです。
試合の後はゆっくりストックホルムへ向かいました。幸い天候にも恵まれ、トレーナーの車もカーポートのない方へ駐車したのでしたが、雪に埋もれることもなく、良い一日でした。]]>
2013.01.11. リンショーピングでのショッピング
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2013-01-23T01:00:46+09:00
2013-01-23T01:00:25+09:00
2013-01-23T01:00:25+09:00
obreykov
徒然なる生活
私は、リンショーピングやエンショーピングやウプサーラなどでニッキィがスケートしている間に結構よいものを見つけてラッキーな買い物ができるので、この日も楽しみに雪の中をショッピングにいきました。ホテルは街のど真ん中にあるのでとても便利です。
思った通り、良いブーツを見つけることができました。ストックホルムでは私のサイズはなかなか置いてなかったり売り切れていたりで見つけるのが大変なのですが、この3都市では必ずと言ってよいほど私のサイズがあるのです。
雪のとき用のブーツが随分と古くなってただの雪の日は良いのですが、雪解けのぐちゃぐちゃ道を行くと、どこからもるのか中がぬれてくるのです。
ぴったりと私の足に吸い付く様なサイズのブーツを3分の2の値段で手に入れることができました。
しかも、イギリスのクッキーも見つけました!
これは、とても素朴なバタークッキーなのですが、あまり私の住んでいる近所では見かけません。
ひとり、日本人ではない人たちのやっているお寿司屋さんでお寿司と焼き肉(付け合わせはご飯でなく焼きそば!)でランチをして、ルンルンで戻りました。
戻ってから、チェックインして、自分一人のリッチな時間をすごしました。
ゆっくりとヘアーダイをして、美しくなったらテレビを見ながら読書をしながらこっくりこっくり。
何とリッチな自分だけの時間!
ニッキィたちはスケート連盟の主催する夕食にホテルで食事ということだったので、私はどこかに食べにいこうかなと思ったけれど、あまりにリラックスしてしまったので、もうどこにも出かける気分にならず、ホテルのレストランの食事を部屋に運んで一人で気ままな夕食にしました。
ニッキィは一度戻ってきましたが、すぐに友達の選手と一緒に過ごすからと出て行ったので、本当に一人でリッチな時間を過ごしました。何年ぶりだろうという感じ!]]>
2013.01.22. 寒い毎日が続いています。
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2013-01-23T00:45:46+09:00
2013-01-23T00:45:55+09:00
2013-01-23T00:45:55+09:00
obreykov
徒然なる生活
私の理想の冬は早めに雪が降ってあたりが真っ白になったら、後は降らずに毎日マイナス2度ほどでとどまってくれる冬です。
そうすれば、雪かきも一度ですむし、マイナス2度くらいなら滑る心配も少なくてすみます。
ところがそうはいかないのが、現実です。
雪がずんずん降った日はせっせと雪かきをしていかないとラッセル車が通った後は道の両脇に雪の山ができるし、大変なことになります。
私は大汗をかいて雪かきに励みました。身体の中からぽかぽかとしてきて本当に良い運動でしたが、ニッキィのトレーナーは転んでしまい大腿の付け根のあたりを骨折して入院手術ということになってしまいました。
ちょうどニッキィたちが強化選手の集まりがあって、その翌日からはLKF杯という、ほぼ毎年出場しているエリート戦もA選手の試合も、そしてBC選手の試合もあるという大々的な大きな試合を控えている時でした。
ニッキィを小さいころからしっているトレーナーが急遽一緒に行ってくださることとなりましたが、彼女を金曜日の早朝に地元のスケート場まで迎えにいき、彼女の車を我が家に駐車して私の車で、ニッキィとトレーナーを連れて行く段取りを取っていたら、ちょうどその朝は夜中からずっと降り続いた雪でまだ除雪車は通っておらず、案の定、うちの駐車場に入れることができませんでした。
私の家の前はほんの少しではあるのですが、上り坂になっており、駐車場はカーポートのある方は狭いので前から入れるのはとても困難、もう一つの方は広いのですが、もっと上り坂の道をあがっていかなくてはならず。。。結局、トレーナーの車を広い方に頭から入れようということにして、私が誘導してもう一度挑戦しようと言うことにしました。今考えたら、何も2台でいく必要がないのに、そのときは頭が回りません。
するとどちらの車も雪にとてつもなく弱いベンツだったので、雪に埋もれてしまい前にも後ろにも行かなくなってしまいました。
ニッキィにスコップや雪かきや砂を持ってきてもらったり、最後には寝ていた夫も起こしてなんとか雪から脱出。
トレーナーの車は夫に運転してもらって駐車してもらいました。
何と5分ですむはずの駐車が40分もかかってしまい、果たして集合時間に間に合うか、という感じで出発しました。
でも、思ったより渋滞にも巻き込まれず、予定時間きっかりにリンショーピングという街に到着しました。]]>
2013.01.03. 春が来たかと思ったのにまた冬
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2013-01-03T21:30:57+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2013-01-03T21:30:11+09:00
obreykov
徒然なる生活
普通なら、暖冬で喜ぶ季節だったのです。そしたら、暖かくてよいわ、うちは黒だから目立たないし、なんて返事。黒くて汚れが目立たないからいいって言う問題じゃない様な気がしました。
黒で目立たないからちょこっと拭いて家に入れているのでしょうか。
ミオは真っ黒で、普段は足を小さなおもちゃのバケツに入れた水でちょこちょこと洗ってから家に入るのですが、今は半シャワーをしないとお腹の辺り砂と水と泥で真っ黒です。
その後始末がいやなので、家族は今はミオと散歩に行きたがりません。
雪の方がずっといいな、シーズン始めに雪が降ってその後は降らずにマイナス1度か2度でとどまってくれたら最高なのに、と思っています。
ところが昨晩散歩に連れて行くと、少し気温がさがってか、ほとんど汚れることもなくまたぬれることもなく戻ってくることができました。
そして、何と今日はまた雪が!
やっぱりスウェーデンの春はまだまだ先の話のようです。
年末の大掃除がすべてすまなかったので、今頃になってあちらこちら始めています。
まだ仕事が始まらないので、ゆっくりとマイペースで、と思っているのですが、期限は一応あります。
5日に夫が誕生会をするというので、それまでにはせめてリビングとキッチン等を見られるようにしておかないとなりません。
ドラマの「ホタルのヒカリ」と同じ様な状態の我が家。。。よく亡くなった父が「この家は定期的にお客さんを呼ばないときれいにならん。」と言っていたのが耳に聞こえてくるようです。
仕事もないし、今はニッキィのスケート場への送り迎えもないので、十分時間があります。
大晦日とお正月には自分へのご褒美で、「テルマエ・ロマニ」と「ロボジー」という映画を見ました。
久しぶり笑いと感動の映画でした。]]>
2013.01.02. 父が会いに来た!
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2013-01-03T05:40:00+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2013-01-03T05:39:53+09:00
obreykov
両親
帰ってからは、ニッキィの友達からもらって来た大きな水槽にうちのグッピーたちを移したり、お昼の支度したり、ヴェステロースに戻るネディを駅まで送ったりと、結構忙しく過ごしました。
なんだか、心身共に疲れた感じで、だんだん、立っているのも辛い感じがして来て、ベッドにはいってちょっくら昼寝というか夕方寝をしました。
ほんの少し、のつもりが、すっかり2時間くらい寝込んでしまいました。
すると、なんだか不思議な夢をみました。
両親を連れてピアノのレッスンに行っています。私が先生なのか、生徒なのかよくわからなかったのですが、訪問先の人が親切だったのですが、話しているうちに、明日、うちにみえるということになりそうで、私は家の中がしっちゃかめっちゃかだったので、大慌てでなんとか理由をつけてうまくお断りしようと必死でした。
すると、父や母がいつでもだれが来てもお迎えできる家庭にしなくてはと言っていたのを思い出しました。二人は、「ほらね」と言わんばかりの顔をして私を見て微笑んでいました。
そこを出発して駅に着くと母が一人、ベンチに腰掛けて私を待っています。
「じっちゃは?」ときくと、「あら、今まで一緒にいたのに、どこいったのかしら?」とのんきに答えるので、「やだ、どこ行ったのかしらじゃないわよ、ちょっとこれ見ていて。」と荷物を頼み、探しに行きました。
そこは私がかつてよく利用した池袋の東口の様な感じでした。
「パパー、パパ」と叫びながら、子供が産まれてから「じっちゃ」と呼んでいたのに、今更、「パパ」なんて呼んでも果たして父はピンと来るのかな、等と考えながら叫んでいると、父も私たちを捜してキョロキョロしながら私を見つけるとニコニコして、こちらに向かってきました。
私は思わず、「やだ、私からはなれないでよ。」といいながら父の左手と背中に抱きつきました。
左手は細かった父なのに、暖かくてぷかぷかとした感じで太ったのかなと思うようでしたが、私の右手がつかんだ父の背中は亡くなる前に入院していた頃の骨と皮のように細くなってしまった父の背中でした。
そんなところで目が覚め、不思議な手に残った父の感覚を感じながらベッドの中でぼーっとして、枕元においてあった携帯を広げてみると、何通もメールがはいっていました。
その中の1つは何と父の葬儀や初盆、一周忌とお世話になった来迎院からでした。
ますます、不思議な感じで、私は一時ベッドの中で不思議な気分に浸っていました。
今でもこの左手に父の左手のぬくもりと、右手には骨と皮のように痩せ細った父の身体の感覚が残っています。
ニコニコしていて、何も話しませんでしたが、なんだか本当に父に会った様な気がしました。
お正月だから、夢の中に会いに来てくれたのでしょうか。
世の中不思議なことがあるな、と思ってはいましたが、このごろ特にそれを感じます。
父が亡くなった日に日本からスウェーデンへ飛行機で飛んでいた私は、飛行機の外に父だったのか、誰かの気配を感じました。それも、今思えば、父の魂だったのかな、と、考えます。
私のとても親しくしている友人もずっと以前に私のところに遊びにいらしている時明け方お父様が名前をお呼びになった夢を見たので、家に電話してみてよいかときいたことがありました。
連絡が取れず、あとになってやっと連絡が取れた時は、お父様が交通事故で、入院なさっていたためだったのですが、その交通事故に遭われた時が友人が夢でお父様に呼ばれた時だったのでした。
まだ、科学ではわからないことがこの世には沢山ある様な気がします。]]>
2013.01.02. 新年おめでとうございます。
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2013-01-03T00:41:11+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2013-01-03T00:40:28+09:00
obreykov
徒然なる生活
明けましておめでとうございます。
2011年から慌ただしい毎日が通り過ぎていきました。長い様で短く、短い様で長い、なんとも言えない私にとっては試練の年でした。
毎年36歳と言い続けていた私ですが、いささか、このごろは疲れて来た感じです。
昨年は日本で年を越し、今年はだれもお客さんを呼ばずに静かに新年を迎えました。
上の3人はそれぞれ友達とパーティーを企画して夕方から出て行きました。謙は何度も買い物もしたりものを運んだりして忙しく過ごしていました。
ニッキィも友達と過ごす様なことを言っていましたが、少しだけ風邪気味が自分でも気になっていたのか、日本の6時間番組とかを見たりしておとなしく家で過ごしていました。
たった三人だけの大晦日でした。
スモークサーモンをオードブルに、牛ヒレ肉の丸焼きに赤ワインソースととポテトグラタンの付け合わせ、そしてデザートはとらやの羊羹、ちょうど新年を迎える時は打ち上げ花火をききながら、シャンペンを開けて、福引き入りのチーズパイ、というメニューでした。
あちらこちらで花火が時々あがるたびにミオは震えていましたが、12時にもの凄い花火があがり始めるとかわいそうなくらい震えて心臓が飛び出すのではないかと思うほどバクバクしていました。
今までは毎年友人たちも呼んでの大晦日だったので、1年の計元旦にありではないけれど、朝までかかって、洗いものと掃除をしていましたが、今回はだいたい洗って、掃除はしませんでした。
しかも誰もいないから、12時になる前にお風呂にはいってネグリジェ姿で新年を迎えました。
ネディは夜中、3時半頃戻ったようでしたが、謙は元日の昼頃、イヴは夕方近くなって戻ってきました。
夜ご飯と言っても良いくらいになってから、九州風、関東風、お雑煮もどきを作って冷凍してあったお餅を入れて食べました。
とっておきの善光寺の甘酒も作りました。
少しだけ日本のお正月。。。と言っても全くお正月の気分はしませんでした。
今日は朝7時半にニッキィのトレーナーを迎えにいって二人を空港へ送りました。
毎年恒例のアンシャルンスヴィークという北の街でスケートの合宿です。
母は4日までショートステイですが、携帯電話を持っていっているはずなのに、出ないところを見るときっと携帯はバッグかなにかにしまい込んで聞こえないのでしょう。。。
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2012.12.20 おめでとうニッキィ、6連覇
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2012-12-21T07:20:12+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2012-12-21T07:20:44+09:00
obreykov
フィギュアスケート
一人で汽車に乗り、ぐったりと疲れているのに、なんだか眠ることもできずに、マルメに着きました。
ニッキィは膝の調子が良くなかったりしていたのに、その前2回ほどエリート戦で試合に臨むことができました。ジュニアのクラスにあがって初めてのシーズンだったので、はじめのウプサーラでの試合では3位に終わりました。
私が熊本に行っていた間のストックホルムでの試合では1位になったということだったので、もしかしてもしかしたら、うまくいくかも、と思いました。
天を仰ぐと、すぐそこに父がいる様な不思議な感覚がしました。49日も終わっていないので、まだその辺にいたのかもしれません。
父に、どうか、満足のいく滑走ができますように見守っていてね、と天を仰いで頼みました。
ニッキィのトレーナーはニッキィがきかないなら、父の死は言わない方が良いというので、私もあえて教えず、ニッキィも何故か父のことは訊こうともしませんでした。
そして、ショートもフリーもとても良い滑走ができて、結果的には何と優勝をすることができたのです。
優秀なジュニアの選手がいた中、優勝ができたなんて本当に夢のようでした。
私は本当に父が力を貸してくれて、最高の滑走ができるようにニッキィに力をくれたとしか思えませんでした。そのために、父が私をスウェーデンに戻したくて、最後の力を振り絞ってがんばって、私をニッキィのもとへ行かせたとしか思えませんでした。
さて、今年のニッキィもシーズン初めはまた、成長からか膝が痛くなったり、また、体調を崩して、せっかくのジュニアグランプリを棒に振ることになってしまいました。
エリート戦にさえ、出場ができず、マルメでの試合の前に、特別に試合としてカウントされないけれど、女子のエリート戦に特別に滑走させてもらうことになりました。
そのとき、点数だけは頂き、審判からも色々な助言を頂き、マルメの試合に臨みました。
マルメではニッキィより年上の優秀な選手もいたのですが、なんとか良い滑走ができ、上位にたっていました。
でも、マルクス選手はトリプルアクセルもプログラムに入れているので、もし、成功したら、油断をしていられません。ところが彼が病気とかで棄権になったので、何の心配もなく良い滑走をすることができました。
そのときの表彰台は三人ともお母さんが日本人だったのにはびっくりしました。
その後、ニッキィはスケート連盟からスウェーデン代表でドイツのNRW杯に出かけました。
今シーズン初めての国際大会で、学ぶこと沢山あったようでした。
飛行機が欠航になったりで大変な思いをして戻ってきました。そんな中準備が不十分でスウェーデン選手権に臨むこととなったのです。
さて、今年のスウェーデン選手権です。
ニッキィたちは12日の水曜日から飛行機でヴェクショーという街に出かけていきました。
トレーナーがアイスを見つけてくれて、練習をしてからでかけることになっていたのですが、ニッキィは学校で13時30分から18時までの全国統一試験があったため、練習に参加することができず、私たちが学校へ迎えにいきそのまま飛行場へ送っていきました。
私は翌日友人と汽車で応援に向かいました。
もちろん、今年も天の父に頼んだのはいうまでもありません。
ところが、ショートではジャンプもミスがあり、ニッキィらしくない滑走になってしまいました。
当然、点数ものびず、3位になってしまいました。
見ているみんなもあまりにニッキィらしくなかったので、どうしたのかとびっくりしていましたが、こんなこともありましょう。。。
私は、どのようにニッキィに会ってよいかわからず、ホテルに戻りました。
ニッキィの友達のお母さんが息子さんに電話するとニッキィも一緒だった様なので、少しは安心しました。
トレーナーがニッキィと話すからと私に言ってくれたので、私はすべてトレーナーに任せて、友人のお母さんと一緒に遅い夕食を食べました。
しばらくすると、その息子さんがトレーナーから電話があってニッキィは出て行ったということだったので、私たちはしばらくロビーでおしゃべりをして、夜も更けてきたので、それぞれの部屋に戻りました。
すると、ニッキィとトレーナーが私たちの部屋で何やら話していたので、私は失礼しようとしましたが、トレーナーが私も中に入って、とおっしゃるので、私もはいってみました。
案の定、ニッキィは自分の滑走に満足できなかった悔しさで、涙を浮かべておりました。
こんなニッキィを見ることはほとんどありません。
でも、トレーナーはある時は厳しく、またある時は優しく、そして、昔のプルシェンコやアプトの時代の試合の様子、大失敗した最終グループに入れなかったプルシェンコがフリーでとても良い滑走をして、逆転したこと、等等、いろいろな話をしてくれました。
最後に、気持ちを入れ替えて、サンドイッチを少し食べてゆっくり休んで明日のトレーニングにはもっと頭を上に向けて!と励ましてくれました。
翌日は早朝に公式練習があり、私はニッキィを見送ってからゆっくりホテルの朝食をとりました。
女子の応援に行きながら、次はいよいよ、ニッキィたちジュニアの番です。
3位だったニッキィは最終滑走グループの2番目です。
こんなにドキドキしたことはありません。
ニッキィが前日のことをひきずって、めためたにならなければ良いけれど。。。ただ、ちゃんと滑れますように、と天の父に頼みました。外に出て天を仰ぐとなんだか父を感じて、きっとうまく滑れるように力を貸してくれるだろうと思いました。
ビデオを持つ手がドキドキして震えます。友達がのどがからからにならないようにとのど飴をくれました。
3回転3回転が2回転3回転になってしまいましたが、なんとかジャンプを一つ一つこなしていっています。
スケーティングものびのびと良い調子のようでした。
拍手も聞こえてきます。
最後のジャンプとスピンと。。。
終わるとトレーナーが迎えに出てニッキィを抱きしめていました。
私たちはいつもニッキィが何位になるか、どんな点数が出るか、ということより、ニッキィのトレーナーがどれだけニッキィの滑走に満足しているかが一番気になるところです。
滅多に褒めないターニャがニッキィを抱きしめているのはうまく滑れたということだ、とほっとしました。
キッスアンドクライでは、何やらターニャが一生懸命コメントをしているようでした。
そしてびっくりする様な点がでて、大きな拍手が聞こえてきました。
でも、まだ二人の選手の滑走が控えています。
後の選手がどのように滑ったか正直目にはいらない気分でした。
次の選手の点数を見て、ああ、少なくとも2位になった、と思いました。
そして最終滑走の選手がほとんど3回転さえ飛ばずに調子が悪かったので、あれあれあれ、と思いました。でも、ショートで、ニッキィと8点ほど差があったので、どうなるかわかりません。
しかし、2位の選手と約7点の差を付けて、ニッキィが圧勝しました。
私は自分の耳を疑ってしまい、横にいる友人たちに「本当なの、本当なの?」と何度も訊いていました。
そして、初めてボロボロと涙がこぼれてきました。
クラブからサポートにきてくれていたもう一人のトレーナーもすぐ私のところにきてくれて、一緒にボロボロ涙をこぼして喜んでくれていました。
私は外に出て天を仰いで父にお礼を言いました。
きっと、簡単に勝たせてはくれなかったのも神様がニッキィに与えた試練だったのかも知れません。
ターニャはこれも本当に良かった、とおっしゃっていました。
おめでとう、ニッキィ。
本当にあのショートの後の立ち直りには私もびっくりしました。
よくやった!
今回の優勝は今までスウェーデン選手権で5回優勝しているけれど、一番重みのある6連覇でした。
そして、こうしてよい方向に導いてくれる良いトレーナーを持って本当に幸せなニッキィです。
おめでとうニッキィ!
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2011.12.14. さようならじっちゃ
http://hemidagbok.exblog.jp/17010232/
2012-12-19T21:19:37+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2012-12-19T21:19:23+09:00
obreykov
両親
今だに、父がいないのが信じられないのではありますが、もう、会うことも話すことも、またしかられることもなくなりました。
私が夜に爪を切ったから、父が言っていたように親の死に目にあえないぞ、と言うのが本当になってしまったのかしら。父は、強い人だったから、私に弱みを見せたくなかったのかしら。
私がスウェーデンに帰るのを待つかの様に、息を引き取ってしまいました。
最後はどんなに苦しかっただろうと思うと、本当にかわいそうでなりません。
何でもできる人だったから、人の世話になるくらいなら死んだ方がましだと言って、延命治療も何もいらないというサインまでしていた人だったから、最後はどんなに苦しかったろう、いやだったろうと思います。
私の子供たちはもちろん、従兄弟従姉妹たちまでもを生まれた時にはお風呂に入れて子供の面倒を見るのが本当に上手な人でした。
さようなら、じっちゃ。孫から「じっちゃ」と呼ばれていた父は私にとってももう、じっちゃという呼び名の方がピンとくるくらいです。世界一厳しく世界一優しい人でした。
今は、天からきっと私たちのことをいつも見守っていてくれるのだろうと確信しています。]]>
2011.12.13. 父と最後の日
http://hemidagbok.exblog.jp/17010190/
2012-12-19T21:10:03+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2012-12-19T21:10:34+09:00
obreykov
両親
どこまで聞こえていたのでしょう。。。私も、あの時、本当にニッキィたち孫を連れてくるまで父が元気になっていると信じていたのでしょうか。今だに、あの時の自分がどんなだったのか何を考え、どう感じていたのか、わからなくなります。私の父に限っていなくなるなんてあり得ないとでも思っていたのでしょうか。
父とは会話もできないまま、でも、きっと私の声は聞こえていたのでしょう。涙を浮かべる時もありました。目を追って顔を動かす時もありました。
父の苦しげな声を聞くと、これ以上苦しめないで、と神様に祈っていました。完全に回復することがない病気を抱えていたのだから、覚悟はしていたはずなのに、私は父がいなくなるなんて考えても見ませんでした。
この日には、母も一緒に連れて行き、しばらくの別れを父としたのでした。母も私がいないと面会も行けません。母の弟夫婦に母がデイサービスのない日は面会ができるようにと頼んでおきました。
ちょうど、午後にみつぐ苑の先生ともう一人面会に来てくださいました。先生はここの国立病院の救命救急の医師であり、父の主治医である先生をよくご存じでした。この先生なら安心ですとおっしゃったので、私も本当に安心しました。
父の胸から水を取り出していましたが、その水に血も混じっていて、私は心配でした。医学のことは何もわからないから。。。みつぐ苑の先生もそれを見ていらっしゃいました。
今後の母のこと等も相談して、母があまり気落ちしていないことが何よりの救いだと話しました。
父としばしの別れをして、私たちは家に帰りました。
私は、翌日4時にはタクシーを呼んであったので、その日はもう寝ずに出発するつもりで、寝具も片付けてシーツ等洗濯しました。
荷造りをしていると、病院から父が危篤だと電話があり、母とタクシーで駆けつけました。
母の弟夫婦や父の兄嫁やその息子等も駆けつけてくれました。
私たちが到着すると父は少しもちなおして、危篤状態から少しだけ回復していました。
どうしたの、しっかりして!今からスウェーデンに戻って、今度は孫たちも連れてくるからそれまでにもう少し元気になっていてって言ったじゃない。と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのか、「あーあー」とさえ声を出すこともできました。
親戚のものは、スウェーデンに戻らずそのまま残った方が良いと言いました。それは父が危篤でいつ亡くなるかわからないから?
今までも危篤になったけれど、もちなおしたじゃない。一般病棟にうつれたじゃない。
色々な思いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、本当に私はどうしたら良いのかわかりませんでした。
もちろん病院の先生もこうしなさい、とおっしゃれないのは当然のこと。でも、先生もいつどうなるか予想はできないとおっしゃります。
このまままた回復するかも、あるいは今日かも、明日かも、1ヶ月後かも、もっと先かも。。。
そんなこと神様だけがご存じなのです。
みんなは残るようにと言いましたが、夫と叔母だけは、とにかく一度予定通り戻って、それから改めてまたくれば良いと私の背中を押してくれました。
主治医と相談し、夜中の2時をタイムリミットとしてそれまで何も変化がなければ私にはもう連絡せず、そのままスウェーデンにいったん戻るということにし、もし、何か変化が起きたら、再び危篤状態になったら連絡をしてもらうということにして、私たちは家に戻りました。
もう一度、父にとりあえずのお別れをし、聞こえているか聞こえていないかわからないけれど、明日、いったんスウェーデンに戻って、ニッキィの応援をして、その後、またここに戻ってくるからねと言って別れました。
父の「あーあー」という声が聞こえている間はどうしても離れることができませんでしたが、少し落ち着いて眠る様な感じになった時に私と母は家に戻りました。
母も眠れないのか、私と一緒に起きていました。
私は荷造りの続きをして、時計とにらめっこで過ごしました。
1時半が過ぎ、2時になりました。
病院からは何も言ってきません。
私は父のクローゼットを開けました。
そこには父の洋服が整然と並んでいました。
父が好んで来ていたブレザーにすがって涙が出てきて、私は初めて、大泣きをしてしまいました。
ふと見ると、父が愛用していた、能面のなんといったか、ネクタイ変わりに首に下げていたものが目に入りました。
父は、飛行機が好きで、1年もたたないうちに、そろそろ飛行機に乗りたくなったなあといいながらスウェーデンに来るのが楽しみだったのに、あの、PSP進行性核上性麻痺という病気に冒されてから、スウェーデンに来ることができなくなってしまったのでした。
私はその能面を自分の首に下げ、父の変わりに連れて行こうと思いました。なんだか首に下げると父が一緒にいる様な気分になったのは本当に不思議でした。
そのまま、タクシーの来る4時になりました。
私はタクシーに乗り、母にはもう、二階の寝室に行って休むように言いました。母が部屋に入るのを確認して、私は父の建てた自慢の家を後に、熊本交通センターに行き、福岡空港への高速バスに乗りました。
福岡出発の前、家に電話しましたが、母は寝ているのか出てきません。叔母に電話しましたが、留守でした。そういえば叔父が毎週水曜日は通院していたんだったとおもい、成田に向かいました。
上空はよい天気で太陽が出ていて、私はふと、窓の外に何か気配を感じました。とても不思議な感覚でしたが、まるで、映画のスーパーマンがエンジンの壊れた機体を運びながら乗客が窓の外を見るとスーパーマンが飛行機とともに飛んでいるという場面が目に浮かぶ感じでした。
一生懸命外を見るけれど、スーパーマンなんて飛んでいないし、だれも外にいる訳ありません。
でも、私は、人の気配を感じたのでした。
あれは、今思うと、父の魂だったのでしょう。
父は私と一緒に、スウェーデンまで来ていたのでしょう。
成田について、電話をしてみるけれど、母はもう、みつぐ苑のデイサービスに出かけた時間。母の弟夫婦はきっと通院している病院へいるはずの時間。だから、私は、父の兄の家に電話をしました。従兄弟の奥さんがでて、「わあ、絵美子さん大変だったね。。。もう帰っているのね。。。」と言っていたのですが、それ以上はろくろく話しませんでした。
母の弟の携帯に電話してみて、ちょうど出たので、私は、父に万一のことがあったら、右の親指を上にして手を組んであげてね、と頼みました。
叔父はわかったわかったと言って、私はヨーロッパ便に乗りました。
夏のさわやかな日々、スウェーデンでは私たちはほとんど庭で食事をしていました。
特に子供たちが小さいころは父が庭先で本を読みながらプールで遊ぶ子供たちを見守っていてくれました。
そんなとき、手を組んでいたのを見て、右の親指が上になるように組んだり、反対に左が上になるように組んだりして、私は左が上にならないと気持ちが落ち着かないというと、父はその反対で、右が上でないと落ち着かないから自分が死んだ時は右上に組んでくれないと成仏できないから、覚えておいてくれ、と笑っていたのを思い出したからです。
そんな話をしたのに、叔父はわかったわかった、と言っただけで、道中の私に何もできなかったからしらせなかったのでしょう。でも、やはり、あの時私は父がもう駄目だったのを感じていたのだと思います。
家についてからも、母に電話するけれど、いないので、母の携帯に電話しました。
すると、ちょうど、火葬場から戻ってきたところだということでした。
私の父は、きっと、私に最後を見せたくなかったのでしょう。私にニッキィのもとへ行かせたかったのでしょう。だから、最後までがんばって、私をスウェーデンに帰したかったのでしょう。
父は私が高速バスに乗る頃、再び危篤状態になって、母の弟夫婦が母を迎えにいって病院に駆けつけ、6時6分にその生涯を終えたのでした。
私が飛行機の中で感じたのは、やっぱり父だったのです。
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2011.12.12. 最後のショッピング
http://hemidagbok.exblog.jp/16980588/
2012-12-14T21:52:00+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2012-12-14T21:52:46+09:00
obreykov
両親
日本の薬や化粧品などは、前から愛用しているものがあるため、いろいろと買いに行きました。
葛根湯、正露丸、セデス、イブクイック、ビタミンC、ポカリスウェット、田舎味噌、麹、胡麻、などなどなどなど。
父は相変わらずですが、痰が詰まるらしく、それを取り除いてもらったりしているとき、私は病室から出ているのですが、苦しそうな声が聞こえるのはたまりませんでした。
でもそれをしないわけにもいかないし、とにかく苦しい思いを少しでも少なくしてほしいと願うのみでした。
母がアルツハイマーのおかげといったらおかしいのですが、父のそんな様子を目の当たりにしても、現実を把握できていないのか、あっけらかんとしているのが不思議でしたが、ある意味、母が現実を把握してくれていないのが助かる部分もありました。
母は、どこまでがどのようにアルツハイマーが進行しているのか、ついさっきの記憶は結構難しくなってきています。
母が私が帰った後一人で国立病院まで来てしまっても、病院内で父の居場所を果たして見つけることができるのか、それが心配で、決して一人では来ないでよ、と何度も行って聞かせました。
母が、夜遅くまで新聞を読んでどうかすると明け方までリビングで起きたままでいるのが本当に心配を通り越して頭にきてしまうときも多々あります。
新聞を読んでいたとは言うものの、こっくりこっくりと居眠りをしているようで、風邪を引かなければよいがとそれが心配です。]]>
2011.12.11. 母と一緒に
http://hemidagbok.exblog.jp/16980110/
2012-12-14T20:25:40+09:00
2013-01-04T05:35:36+09:00
2012-12-14T20:25:51+09:00
obreykov
両親
日本はお中元お歳暮の習慣があるので、ある意味、よいと思いますが、ある意味、無駄なことだとも思いました。義理で贈らなくてはならない,いただいてもお返ししなくてはならない、いただいたものも必要ではない、などなど、結構無駄なこともあるように感じるのは私だけでしょうか。。。
よく父が、スウェーデンに来ていると冠婚葬祭の面倒なことをしなくてすむから助かると笑っていたのを思い出します。
母と街で昼ごはんを食べてから、時間にとらわれずに父の面会に行きました。
父は相変わらずでしたが、貧血があるとかで輸血をしていました。
大丈夫かな、とちょっと心配でしたが、一般病棟で普通の人工呼吸器で、と何か安心しようと努力している自分を感じました。
父が一般病棟へ移ったというとで、安心したのか、私自身もどっと疲れを感じました。気の緩みからか風邪も引きそうな気分になってきたので、あわててビタミンCを飲み、葛根湯をのみ、夕方は疲れてソファで眠ってしまいました。]]>
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