カテゴリ:両親( 28 )

2013.01.02. 父が会いに来た!

今日は早朝からニッキィたちを空港に送り、そのまま朝8時から開いているスーパーに買い物に行きすっかりくたびれて戻りました。早朝の買い物はなかなか良いなと思いました。10時に閉まるスーパーなので、よく夜遅くニッキィのトレーニングの後にしまる15分前とかに買い物に行きますが、焼きたてパンが半額だったり、人も少なくとてもよい感じだったのですが、いつもギリギリで大急ぎでしたが、早朝は人も少ない上にゆったりできて最高でした。仕事が始まったらそんなことしていられませんが。。。

帰ってからは、ニッキィの友達からもらって来た大きな水槽にうちのグッピーたちを移したり、お昼の支度したり、ヴェステロースに戻るネディを駅まで送ったりと、結構忙しく過ごしました。
なんだか、心身共に疲れた感じで、だんだん、立っているのも辛い感じがして来て、ベッドにはいってちょっくら昼寝というか夕方寝をしました。
ほんの少し、のつもりが、すっかり2時間くらい寝込んでしまいました。

すると、なんだか不思議な夢をみました。
両親を連れてピアノのレッスンに行っています。私が先生なのか、生徒なのかよくわからなかったのですが、訪問先の人が親切だったのですが、話しているうちに、明日、うちにみえるということになりそうで、私は家の中がしっちゃかめっちゃかだったので、大慌てでなんとか理由をつけてうまくお断りしようと必死でした。
すると、父や母がいつでもだれが来てもお迎えできる家庭にしなくてはと言っていたのを思い出しました。二人は、「ほらね」と言わんばかりの顔をして私を見て微笑んでいました。
そこを出発して駅に着くと母が一人、ベンチに腰掛けて私を待っています。
「じっちゃは?」ときくと、「あら、今まで一緒にいたのに、どこいったのかしら?」とのんきに答えるので、「やだ、どこ行ったのかしらじゃないわよ、ちょっとこれ見ていて。」と荷物を頼み、探しに行きました。
そこは私がかつてよく利用した池袋の東口の様な感じでした。
「パパー、パパ」と叫びながら、子供が産まれてから「じっちゃ」と呼んでいたのに、今更、「パパ」なんて呼んでも果たして父はピンと来るのかな、等と考えながら叫んでいると、父も私たちを捜してキョロキョロしながら私を見つけるとニコニコして、こちらに向かってきました。
私は思わず、「やだ、私からはなれないでよ。」といいながら父の左手と背中に抱きつきました。
左手は細かった父なのに、暖かくてぷかぷかとした感じで太ったのかなと思うようでしたが、私の右手がつかんだ父の背中は亡くなる前に入院していた頃の骨と皮のように細くなってしまった父の背中でした。

そんなところで目が覚め、不思議な手に残った父の感覚を感じながらベッドの中でぼーっとして、枕元においてあった携帯を広げてみると、何通もメールがはいっていました。
その中の1つは何と父の葬儀や初盆、一周忌とお世話になった来迎院からでした。
ますます、不思議な感じで、私は一時ベッドの中で不思議な気分に浸っていました。

今でもこの左手に父の左手のぬくもりと、右手には骨と皮のように痩せ細った父の身体の感覚が残っています。
ニコニコしていて、何も話しませんでしたが、なんだか本当に父に会った様な気がしました。

お正月だから、夢の中に会いに来てくれたのでしょうか。
世の中不思議なことがあるな、と思ってはいましたが、このごろ特にそれを感じます。
父が亡くなった日に日本からスウェーデンへ飛行機で飛んでいた私は、飛行機の外に父だったのか、誰かの気配を感じました。それも、今思えば、父の魂だったのかな、と、考えます。

私のとても親しくしている友人もずっと以前に私のところに遊びにいらしている時明け方お父様が名前をお呼びになった夢を見たので、家に電話してみてよいかときいたことがありました。
連絡が取れず、あとになってやっと連絡が取れた時は、お父様が交通事故で、入院なさっていたためだったのですが、その交通事故に遭われた時が友人が夢でお父様に呼ばれた時だったのでした。

まだ、科学ではわからないことがこの世には沢山ある様な気がします。
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by obreykov | 2013-01-03 05:40 | 両親

2011.12.14. さようならじっちゃ

2011年12月14日、これが私の父の命日になってしまいました。
今だに、父がいないのが信じられないのではありますが、もう、会うことも話すことも、またしかられることもなくなりました。
私が夜に爪を切ったから、父が言っていたように親の死に目にあえないぞ、と言うのが本当になってしまったのかしら。父は、強い人だったから、私に弱みを見せたくなかったのかしら。
私がスウェーデンに帰るのを待つかの様に、息を引き取ってしまいました。
最後はどんなに苦しかっただろうと思うと、本当にかわいそうでなりません。
何でもできる人だったから、人の世話になるくらいなら死んだ方がましだと言って、延命治療も何もいらないというサインまでしていた人だったから、最後はどんなに苦しかったろう、いやだったろうと思います。

私の子供たちはもちろん、従兄弟従姉妹たちまでもを生まれた時にはお風呂に入れて子供の面倒を見るのが本当に上手な人でした。

さようなら、じっちゃ。孫から「じっちゃ」と呼ばれていた父は私にとってももう、じっちゃという呼び名の方がピンとくるくらいです。世界一厳しく世界一優しい人でした。
今は、天からきっと私たちのことをいつも見守っていてくれるのだろうと確信しています。
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by obreykov | 2012-12-19 21:19 | 両親

2011.12.13. 父と最後の日

明日早朝はスウェーデンに帰らなくてはならないというこの日。父との面会もとりあえずは今回は最後の日と思って、父にも、一般病棟にうつって、少しずつでも回復に向かってよかったね、今度は孫たちも連れてくるからね、私は、いったんスウェーデンに戻るからね、ニッキィはスウェーデン選手権にもう出発しているから、私もスウェーデンに着いたらすぐに応援に駆けつけるのよ、うまくできるように応援してあげてね、等と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのでしょう。。。私も、あの時、本当にニッキィたち孫を連れてくるまで父が元気になっていると信じていたのでしょうか。今だに、あの時の自分がどんなだったのか何を考え、どう感じていたのか、わからなくなります。私の父に限っていなくなるなんてあり得ないとでも思っていたのでしょうか。

父とは会話もできないまま、でも、きっと私の声は聞こえていたのでしょう。涙を浮かべる時もありました。目を追って顔を動かす時もありました。
父の苦しげな声を聞くと、これ以上苦しめないで、と神様に祈っていました。完全に回復することがない病気を抱えていたのだから、覚悟はしていたはずなのに、私は父がいなくなるなんて考えても見ませんでした。

この日には、母も一緒に連れて行き、しばらくの別れを父としたのでした。母も私がいないと面会も行けません。母の弟夫婦に母がデイサービスのない日は面会ができるようにと頼んでおきました。

ちょうど、午後にみつぐ苑の先生ともう一人面会に来てくださいました。先生はここの国立病院の救命救急の医師であり、父の主治医である先生をよくご存じでした。この先生なら安心ですとおっしゃったので、私も本当に安心しました。
父の胸から水を取り出していましたが、その水に血も混じっていて、私は心配でした。医学のことは何もわからないから。。。みつぐ苑の先生もそれを見ていらっしゃいました。
今後の母のこと等も相談して、母があまり気落ちしていないことが何よりの救いだと話しました。

父としばしの別れをして、私たちは家に帰りました。

私は、翌日4時にはタクシーを呼んであったので、その日はもう寝ずに出発するつもりで、寝具も片付けてシーツ等洗濯しました。
荷造りをしていると、病院から父が危篤だと電話があり、母とタクシーで駆けつけました。
母の弟夫婦や父の兄嫁やその息子等も駆けつけてくれました。

私たちが到着すると父は少しもちなおして、危篤状態から少しだけ回復していました。
どうしたの、しっかりして!今からスウェーデンに戻って、今度は孫たちも連れてくるからそれまでにもう少し元気になっていてって言ったじゃない。と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのか、「あーあー」とさえ声を出すこともできました。

親戚のものは、スウェーデンに戻らずそのまま残った方が良いと言いました。それは父が危篤でいつ亡くなるかわからないから?
今までも危篤になったけれど、もちなおしたじゃない。一般病棟にうつれたじゃない。
色々な思いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、本当に私はどうしたら良いのかわかりませんでした。
もちろん病院の先生もこうしなさい、とおっしゃれないのは当然のこと。でも、先生もいつどうなるか予想はできないとおっしゃります。
このまままた回復するかも、あるいは今日かも、明日かも、1ヶ月後かも、もっと先かも。。。
そんなこと神様だけがご存じなのです。

みんなは残るようにと言いましたが、夫と叔母だけは、とにかく一度予定通り戻って、それから改めてまたくれば良いと私の背中を押してくれました。
主治医と相談し、夜中の2時をタイムリミットとしてそれまで何も変化がなければ私にはもう連絡せず、そのままスウェーデンにいったん戻るということにし、もし、何か変化が起きたら、再び危篤状態になったら連絡をしてもらうということにして、私たちは家に戻りました。

もう一度、父にとりあえずのお別れをし、聞こえているか聞こえていないかわからないけれど、明日、いったんスウェーデンに戻って、ニッキィの応援をして、その後、またここに戻ってくるからねと言って別れました。
父の「あーあー」という声が聞こえている間はどうしても離れることができませんでしたが、少し落ち着いて眠る様な感じになった時に私と母は家に戻りました。

母も眠れないのか、私と一緒に起きていました。
私は荷造りの続きをして、時計とにらめっこで過ごしました。
1時半が過ぎ、2時になりました。
病院からは何も言ってきません。

私は父のクローゼットを開けました。
そこには父の洋服が整然と並んでいました。
父が好んで来ていたブレザーにすがって涙が出てきて、私は初めて、大泣きをしてしまいました。
ふと見ると、父が愛用していた、能面のなんといったか、ネクタイ変わりに首に下げていたものが目に入りました。
父は、飛行機が好きで、1年もたたないうちに、そろそろ飛行機に乗りたくなったなあといいながらスウェーデンに来るのが楽しみだったのに、あの、PSP進行性核上性麻痺という病気に冒されてから、スウェーデンに来ることができなくなってしまったのでした。
私はその能面を自分の首に下げ、父の変わりに連れて行こうと思いました。なんだか首に下げると父が一緒にいる様な気分になったのは本当に不思議でした。

そのまま、タクシーの来る4時になりました。
私はタクシーに乗り、母にはもう、二階の寝室に行って休むように言いました。母が部屋に入るのを確認して、私は父の建てた自慢の家を後に、熊本交通センターに行き、福岡空港への高速バスに乗りました。

福岡出発の前、家に電話しましたが、母は寝ているのか出てきません。叔母に電話しましたが、留守でした。そういえば叔父が毎週水曜日は通院していたんだったとおもい、成田に向かいました。

上空はよい天気で太陽が出ていて、私はふと、窓の外に何か気配を感じました。とても不思議な感覚でしたが、まるで、映画のスーパーマンがエンジンの壊れた機体を運びながら乗客が窓の外を見るとスーパーマンが飛行機とともに飛んでいるという場面が目に浮かぶ感じでした。
一生懸命外を見るけれど、スーパーマンなんて飛んでいないし、だれも外にいる訳ありません。
でも、私は、人の気配を感じたのでした。
あれは、今思うと、父の魂だったのでしょう。
父は私と一緒に、スウェーデンまで来ていたのでしょう。

成田について、電話をしてみるけれど、母はもう、みつぐ苑のデイサービスに出かけた時間。母の弟夫婦はきっと通院している病院へいるはずの時間。だから、私は、父の兄の家に電話をしました。従兄弟の奥さんがでて、「わあ、絵美子さん大変だったね。。。もう帰っているのね。。。」と言っていたのですが、それ以上はろくろく話しませんでした。
母の弟の携帯に電話してみて、ちょうど出たので、私は、父に万一のことがあったら、右の親指を上にして手を組んであげてね、と頼みました。
叔父はわかったわかったと言って、私はヨーロッパ便に乗りました。

夏のさわやかな日々、スウェーデンでは私たちはほとんど庭で食事をしていました。
特に子供たちが小さいころは父が庭先で本を読みながらプールで遊ぶ子供たちを見守っていてくれました。
そんなとき、手を組んでいたのを見て、右の親指が上になるように組んだり、反対に左が上になるように組んだりして、私は左が上にならないと気持ちが落ち着かないというと、父はその反対で、右が上でないと落ち着かないから自分が死んだ時は右上に組んでくれないと成仏できないから、覚えておいてくれ、と笑っていたのを思い出したからです。

そんな話をしたのに、叔父はわかったわかった、と言っただけで、道中の私に何もできなかったからしらせなかったのでしょう。でも、やはり、あの時私は父がもう駄目だったのを感じていたのだと思います。
家についてからも、母に電話するけれど、いないので、母の携帯に電話しました。
すると、ちょうど、火葬場から戻ってきたところだということでした。

私の父は、きっと、私に最後を見せたくなかったのでしょう。私にニッキィのもとへ行かせたかったのでしょう。だから、最後までがんばって、私をスウェーデンに帰したかったのでしょう。

父は私が高速バスに乗る頃、再び危篤状態になって、母の弟夫婦が母を迎えにいって病院に駆けつけ、6時6分にその生涯を終えたのでした。
私が飛行機の中で感じたのは、やっぱり父だったのです。
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by obreykov | 2012-12-19 21:10 | 両親

2011.12.12. 最後のショッピング

父が一般病棟に移ったことで、面会時間を気にせず会いにいけるようになりました。それに完治しないのはわかっていると入ってもとりあえず、ICUから出たということで安心したというか、安心したと自分に思い込ませて、私も家族から頼まれていたものを買いに行ったりできる気分になりました。
日本の薬や化粧品などは、前から愛用しているものがあるため、いろいろと買いに行きました。

葛根湯、正露丸、セデス、イブクイック、ビタミンC、ポカリスウェット、田舎味噌、麹、胡麻、などなどなどなど。

父は相変わらずですが、痰が詰まるらしく、それを取り除いてもらったりしているとき、私は病室から出ているのですが、苦しそうな声が聞こえるのはたまりませんでした。
でもそれをしないわけにもいかないし、とにかく苦しい思いを少しでも少なくしてほしいと願うのみでした。

母がアルツハイマーのおかげといったらおかしいのですが、父のそんな様子を目の当たりにしても、現実を把握できていないのか、あっけらかんとしているのが不思議でしたが、ある意味、母が現実を把握してくれていないのが助かる部分もありました。
母は、どこまでがどのようにアルツハイマーが進行しているのか、ついさっきの記憶は結構難しくなってきています。

母が私が帰った後一人で国立病院まで来てしまっても、病院内で父の居場所を果たして見つけることができるのか、それが心配で、決して一人では来ないでよ、と何度も行って聞かせました。

母が、夜遅くまで新聞を読んでどうかすると明け方までリビングで起きたままでいるのが本当に心配を通り越して頭にきてしまうときも多々あります。
新聞を読んでいたとは言うものの、こっくりこっくりと居眠りをしているようで、風邪を引かなければよいがとそれが心配です。
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by obreykov | 2012-12-14 21:52 | 両親

2011.12.11. 母と一緒に

母がデイサービスが休みの日だったので、二人で街に出かけ、お歳暮を贈りました。
日本はお中元お歳暮の習慣があるので、ある意味、よいと思いますが、ある意味、無駄なことだとも思いました。義理で贈らなくてはならない,いただいてもお返ししなくてはならない、いただいたものも必要ではない、などなど、結構無駄なこともあるように感じるのは私だけでしょうか。。。
よく父が、スウェーデンに来ていると冠婚葬祭の面倒なことをしなくてすむから助かると笑っていたのを思い出します。

母と街で昼ごはんを食べてから、時間にとらわれずに父の面会に行きました。
父は相変わらずでしたが、貧血があるとかで輸血をしていました。
大丈夫かな、とちょっと心配でしたが、一般病棟で普通の人工呼吸器で、と何か安心しようと努力している自分を感じました。

父が一般病棟へ移ったというとで、安心したのか、私自身もどっと疲れを感じました。気の緩みからか風邪も引きそうな気分になってきたので、あわててビタミンCを飲み、葛根湯をのみ、夕方は疲れてソファで眠ってしまいました。
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by obreykov | 2012-12-14 20:25 | 両親

2011.12.10.一般病棟へ

朝、叔父たちが迎えに来てくれて一緒に病院へ行きました。
信じられないことですが、なんと午後には一般病棟に移るということ。びっくりしてうれしくてその日は日本に来て初めてショッピングをするために叔父たちがユニクロに連れて行ってくれ、まったく食欲も何もなかったのですが、とても美味しい回転寿司にも連れて行ってくれました。
私は始めて、ショッピングをする気分になって子供たちや母や私の洋服などを買う気になりました。
今まではどこに行っても商品を見ても目に入らず、父のために必要なものを病院から言われたとおりのものを買うくらいしかできなかったのに、人間の心とは本当に不思議にできています。

あの日は本当にうれしいだけでしたが、いま、1年もたって考えて見れば、一般病棟へ写るということは必ずしも回復に向かっているから移ったということではなかったのだろうと思います。
普通の人工呼吸器になったのも必ずしもよい方向へ向かっていたからではなかったのでしょう。
でも、あのときの私は単純だったのか、そう願いたいという気持ちからか、喜んでいたのでした。回復するはずがないのがよくわかっていたのに、認めたくなかったのか、でも、父が少しでも楽になってきたのかと錯覚していたのか、いまだに自分でもよくわかりません。

とにかく私は本当にうれしくて、お寿司も美味しくいただき、初めて熊本で何かを美味しく食べたような気がしました。子供や夫へのプレセントとして日本の洋服も買い、気持ちがずいぶんと楽になりました。

3時ごろ病院へ行くとちょうど一般病棟へ移ろうとしているところで私も手伝うことができました。
担当医はそのまま同じ先生だったので、安心しました。
あとで知ったことでしたが、担当医は父がお世話になっいたみつぐ苑の診療所の先生もご存知で、とても優秀な救命救急の先生でした。
ドラマで見ていたような救命救急が現実に本当にあわただしい毎日を送っているのを目の当たりにしました。

父にもよかったねよかったねと連発して安心して夕方には家に帰りました。
もう、30分以内の決められた面会時間ではなく、いつでも父に会いにいけるようになりました。
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by obreykov | 2012-12-14 20:11 | 両親

2012.12.14.あれから1年

今日は父の祥月命日です。といっても時差があるので、昨晩22時6分に父は亡くなったことになります。
私は、去年と同様にニッキィのフィギュアスケートのスウェーデン選手権の応援のために今年はヴぇクショーという南スウェーデンに来ています。
昨年の試合のときはニッキィには父の死を知らせず、私は天を仰いで父にニッキィのこと守ってあげてね、と祈ったものでした。なんだかすぐそばに父を感じていました。あのころ、まだ天国まで行かずに私の頭の上のほうをうろうろとしていたのではないかと思います。すぐそばに父を感じていたから不思議です。日本からの飛行機の中でも、スーパーマンがエンジンを抱えて故障した飛行機と一緒に飛んでいたときのようにすぐそばに父を感じていたから不思議でした。

さて、今日は夜にジュニアのショートがあります。3年も膝の痛みや、あるときは別の怪我や病気で試合をドタキャンしたり、波乱万丈だったニッキィですが、こうして元気に試合に臨むことができつつあることを心から喜び感謝しています。

がんばれニッキィ!
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by obreykov | 2012-12-14 19:55 | 両親

2011.12.09. 胸に穴が。。。

母をいつもの様にみつぐ苑のデイサービスに送り出してからすぐ病院へ出かけました。11時の面会に間に合うように。すると父の兄嫁である私の叔母も来てくれていました。
父は一時期とまったく違って目も開け、話しかけると「あーあー」といって、特に右目はしっかりとして顔も動かして私の方を見たりしてくれました。私のことがわかるのかな。目で追ってくれます。このまま良くなれば良いけれど。。。とにかく父が苦しまないように痛くないように、とそればかりを祈ります。
14時の面会にも行きました。前日のCTスキャンによると何と胸に穴もあいていることがわかったようです。
肺炎がひどいということなのでしょうか。肺の水も完全にとることができていないそうで、かといって急にだしてしまうと良くないそうで、その辺を細かく調整しながら治療をしているということです。
私は医学的なこと何もわからないけれど、水が入っているなら早くだしてしまって!穴があいているなら早く塞いであげて!と叫びたい気持ちで一杯でした。
父がどこまでわかっているのかわかりませんが、とにかく「夕方母も連れてまたくるね。」と行って私は家に戻りました。
私も今思えばかなり疲れていたのですが、あの頃はそれを感じている暇もありませんでした。

母がみつぐ苑から戻るのを待って、18時と19時30分の面会に間に合うように行きました。
父は小鼻の人工呼吸器のマスクの傷の手当をしてもらっているところでした。こんなに傷になるほどぎゅっとマスクを押し付けられていたのでしょう。それも辛いだろうなと思いました。
1ヶ月前に癌でなくなった叔父が同じ人工呼吸器をつけられており、一度外した時に医師に「お願いだからこの人工呼吸器はつけないでください。」と頼んだそうです。とても辛い人工呼吸器だそうです。
私もここの医師にきいてみたら、無理に呼吸をさせられている状態だから、私たちが車の窓から口を開けては知っている状態を想像したら良いと思います。ということでした。

でも自分の力で呼吸ができるようになったというのはすごいことだと思いました。
医師もあの人工呼吸器をあの時の状態で止める訳には行かないとおっしゃっていました。あくまで治療だから治療方針を変える訳にも行かないし、外したら呼吸ができなくなるというのをわかっていて外すわけにはいかないそうです。
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by obreykov | 2012-11-30 21:52 | 両親

2011.12.8. 人工呼吸器が普通のタイプに!

1年も前のことを書こうとしているのですが、まるで昨日のように思い出されるのが不思議です。
今日は、2012年11月30日、昨年の今頃は父が生と死と必死に戦っていた頃。。。
今、ここ、ストックホルムでは昨日からの小さな粉雪が降り続いて、すっかり銀世界となり、ミオの散歩もとても楽になりました。

さて、この1年前の12月8日は、入院中の父が一番良くなった日でもありました。
朝、母をみつぐ苑のデイサービスに送り出してから11時の面会にいくとちょうど検査に行ってベッドが留守の状態でした。私は、その間に銀行へ行ってお金をおろしたり、色々な用事を済ませて14時のめん貝に行きました。
すると昼頃から最新の機能ではあるけれどあの恐ろしげな、人工呼吸器を外しているということでした。小鼻の辺りには人工呼吸器で押さえつけられて傷になっていたのがとてもかわいそうでした。
先生が「自分の力で呼吸をしていますよ。」とおっしゃったので、本当にうれしくなり、父の耳元で何度も「よかったね、よかったね。」と言いました。
その後バスで家に戻り、母が戻ってくるのを待って、再び病院に18時の面会に一緒に行きました。
母はどこまで父の様子が把握できているのだろうという感じがありましたが、人工呼吸器が外せるようになったことを一緒に喜んでいました。病院で少しゆっくりと待合室で待たせてもらって次の19時30分の面会にも行きました。
このまま回復してくれれば良いけれど。とにかく父が苦しくないようにと祈るばかりでした。

街の真ん中にある病院ではありますが、街にでる元気もなかったので、母と二人、病院の食堂で夕食をとって帰りました。元気になるわかめうどんがとても美味しいのです。
タクシーで帰宅しました。早く父が良くなることを祈って。。。
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by obreykov | 2012-11-30 21:34 | 両親

2012.11.25. あれから1年

父が入院してちょうど今日で1年目。
父の入院から死に至までを記録しようとし始めて、途中でとまってしまいました。でも、辛いけれど少しずつでも書いて行こうと思います。

あれから、もう1年が過ぎてしまったなんて、まるで昨日の様でもあるし、もうずいぶんと時が流れた様な気もするし、不思議な気持ちです。父が亡くなってしまったのは事実で受け止めているのに、なんだか今頃になって実感がなかったりするから不思議です。何かあると、父に相談してみよう、と思っていて、あ、もういないんだ。。。と思うことが多々あります。
一時の悲しい気持ちが薄れてなんだか亡くなったのが事実ではなかった様な気がしてきます。
それに、あの頃の自分自身も一体どうやって毎日を過ごせて、瀕死の父を残して、スウェーデンに戻れたのだろう、と自分自身の気持ちもわからなくなります。
あの時、はたして私は父は亡くならず、良くなると思ったのだろうか。。。だから、ちょっとだけスウェーデンに戻ってまた来る、と父に言い残してスウェーデンに戻ったのだろうか。。。私は父が死ぬはずがないと思っていたのだろうか。父は私に戻るようにと願ったのだろうか。私が戻るのを待つようにしてなくなった父。「夜爪を切ると親の死に目に会えないぞ。」と言っていた父を思い出します。爪を夜に切ったことあるから父が亡くなるとき私はそばにいることができなかったのかなと思うことがあります。
でも、私ははたして、あの時のこって、父の最後に向き合うことができたのだろうか。。。
父が亡くなったということを考えないように、朝の仏さまにお茶をお供えしてお参りする時は父に向かって話すけれど、亡くなったという実感を考えないようにしていたのに、こうして書き始めると、涙があふれてくる。。。
どんなに辛い20日間を過ごしたのかと思うと、かわいそうでならない。何と強い人だったのだろうと思う。。。

夏休みには一人で日本へ行き、6週間の滞在をして、相続のこと、家のこと、色々な沢山の手続きをなんとか済ませて、母を天草への旅行にもつれていき、少し親孝行もできたようで、また、無事に初盆も済ませて、納骨もすることができました。
何十年ぶりかで東京の高校と小学校のクラス会にも出席することができました。

秋休みには2週間ではあったけれど謙とイヴを連れて、もう一度日本へ行って少し早めの1周忌を済ませることもできました。
この2週間は時間との戦いのようでしたが、予定していたすべてのことをなんとかこなして帰ることができました。

父の闘病の後半、また少しずつ綴っていこうと思います。
みんなが健康で幸せでありますように。
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by obreykov | 2012-11-26 07:45 | 両親