「ほっ」と。キャンペーン

カテゴリ:両親( 28 )

2011.12.07. 父、少し熱がでる

母はデイサービスに行く前いつもしていた指輪などを入れていたケースがないと大騒ぎしていたのに、家に戻るとちゃんと指にしているので、不思議の国に来た様な気分になります。
佐賀の従兄弟とも「まるで不思議の国にいるようですね」とよく話します。叔母も何度も何度もご飯を炊くようで、あるものが無くなったと思えば、ひょっこりでてきているし、佐賀の不思議の国のアリスと熊本の不思議の国のアリス、というあだ名を付けたくらいです。

私は、母がデイサービスに出かけてからすぐに11時の面会に行きました。
相変わらずで、目はあまり開けないながらも、謙が携帯に送ってくれたニッキィの写真を見せるとよく目で追って見ていました。やっぱりわかるのでしょう。
14時の面会の後、私はバスで父の実家の方へ行き、お墓参りをしました。
祖父母や父の姉兄弟、そして父の娘である私の妹などに、なんとか父が苦しくないようにと頼みました。
18時の面会に行くと少し熱がでたので、原因を調べている最中だと医師から説明がありました。
熱がでたということはどこか炎症があるのか、肺炎が悪化したのか、よくないことばかりを考えてしまいます。
肺の水を取る装置はついたままですが、急に出してしまうとよくないそうで、少しずつ水を出すのだそうです。
父は胸にはいっている水を出すための管がきっと延命治療のためだと勘違いしているのではないかと思いました。すぐにそのような管を取り外そうとするそうで、手も時々縛り付けられてることもあります。
そんな姿を見るのは本当に辛いのですが、それだけ力もあるのかと思うとうれしいような。。。
[PR]
by obreykov | 2012-06-17 08:57 | 両親

2011.12.06. 普通の人工呼吸にしてみたらしい

朝早く謙からニッキィの誕生日の時の写真が携帯に送ってきました。
朝のうち佐賀の従兄弟が再び車で来てくれて、ちょうど母もデイサービスがないので、病院に連れて行ってくれました。
先日彼が来てくれた時も目をあくことがなかったのですが、今回も目を開けてくれませんでした。
手は動かしていて従兄弟も手を握ってくれたり、話しかけてくれたり、私はニッキィの写真を見せたかったのに、とうとう目を開けなかったので見せることができませんでした。
先生が来て、私たちが行く前に30分ほど普通の人工呼吸器にして様子を見てみたことを知らせてくれました。
自分の力で呼吸ができるようになっていたら普通の人工呼吸器にするように方針を決めてくれたのでした。
もの凄い呼吸器は器械が無理に呼吸を指せている状態だそうで、私たちが車に乗って窓を開けたまま顔を出して口をあいている様な状態だと言うことでした。
でも、やはりまだ自分での呼吸が無理なようで、あのすごい人工呼吸器に戻されてしまったのでした。
それが苦しいのか、手で何度か呼吸器を取ろうという様な様子がうかがわれました。
苦しいのか、延命処置と勘違いしているのか。。。
3人で昼ご飯を外で食べて、従兄弟が母と私を家まで送ってくれて、お茶を飲みながらいろいろと話しました。
一人っ子の私にとって、こうして従兄弟が来てくれるのは本当に心強いものがあります。
特にこの従兄弟は東京で大学に通っていたので、そのころ私の家のすぐそばに下宿していてよく夜ご飯など食べにきていたから私にとってもかなり心強い従兄弟です。
しかも彼のお父さんは11月に亡くなり、お母さんは母と同じようにアルツハイマーがあり、状況が似ているので、いろいろな話をしました。
本家の従兄弟の息子も午後の面会に来てくれたようでした。
人間は元気な時はいつでも会えるという気持ちがあってなかなか会うこともなく過ごしてしまいますが、こうして誰かが病気になると普段会わなかった人たちとも会うことができます。もっと楽しい場面で会えたらよかったのにと思います。
[PR]
by obreykov | 2012-06-17 08:44 | 両親

2011.12.05. ニッキィの誕生日に父もだいぶ回復か。

誕生日に近しい人が亡くなったり、近しい人の命日に誕生したりということがよくあるので、実を言うと私はニッキィの誕生日のこの日、父がどうかなってしまったらというわずかながらの不安がありました。12月1日の父の母親の命日は無事に乗り越えたので、本当にニッキィの誕生日はどうかと心配でしたが、母をデイサービスに送り出した後11時の面会に行きました。
本家の叔母と母の弟夫婦が面会に来てくれて父も目をうっすら開け、あーあーとしか言うことはできなかったけれど、私は父の回復に本当にほっとしました。
叔母たちと久しぶりに「鈴の屋」という日本料亭でお昼をご一緒しました。上品な鈴弁当で、久しぶりに美味しく食事がのどを通って行った気分でした。
午後にもう一度私一人で面会に行きました。
相変わらずの父の様子に安堵して、インターネットカフェに行き、メールのチェックなどをしてから夕方には戻りました。母も元気であまり父のこと、深刻に考えていないのはかえってよいのかと思いました。
父の担当の先生とも話し、父が延命治療を受けたくなかったことなど話して、もの凄い装備の人工呼吸器なども本人に苦痛になっていないのかなど訊きました。
本人にしかわからないけれど、苦痛はあるだろうということで、できるだけ痛い思い、苦しい思いをさせないでほしいことを頼みました。
現在父にしていることはあくまで治療であり、延命治療ではないこと、現在の日本では、この治療を取りやめることはできないことなどの説明がありました。私は、安楽死をしてあげてほしいと行っているのではありません。
ただ、父のように回復の見込みのない病気を抱えていて、苦しい思いをさせて1日1日延ばして行くより、痛い思い苦しい思いをさせない様な方法をとってほしいと願うのです。
回復の見込みがあるのなら、少々苦しい思いをしても、なんとか治療して治してもらいたいけれど、父が苦しそうにしているのを見るのは本当に辛いことでした。
[PR]
by obreykov | 2012-06-17 08:30 | 両親

2011.12.04. だいぶ回復した父

母はデイサービスもない日曜日、友人の結婚式とかで私の従姉妹の長男しんちゃんが福岡の方から実家に帰ってきていたので、家にきてくれました。
この子は本家の長女の子供で、私たち親戚一同にとって初めての子供だったため、みんなからかわいがられていました。私も一番仲良く面倒を見てもらっていた従姉妹の子供なので、まるで自分の子供か弟が生まれた様なうれしさで、熊本に遊びにいくのが楽しみでなりませんでした。
私にもよくなついて、ついて回って、本当によく遊びました。「えみねえちゃん」と私をよんで、スウェーデンにも遊びにきました。私の父にとっても初孫と同様の感覚だったのでしょう。とてもかわいがっており、しんちゃんはみんなにとって特別な存在でした。
母も大喜びで、とにかく早速父の見舞いにいこうということになって、しんちゃんの車で病院へ向かいました。
金曜日の危篤の父が嘘のように、目もしっかり開けてその目で私たちを追い、手もしっかり握ってくれました。
しんちゃんが来たこともよくわかったようで、再び涙ぐんでいました。しんちゃんも父の涙を何度か拭き取ってくれました。「おじちゃん、よかったよかった」というとぎゅっと手を握ったそうで、しんちゃんも喜んでくれました。
14時の面会も住ませてから母をタクシーで返し、私はやっと安心して、ダイエーに行き、行きつけの美容室で髪をカットしてもらいました。ダイエーから電車で18時の面会にいきました。
胸の水も随分減って、炎症も少しよくなったと医師から知らされました。
私は、とにかく本人が苦しくないようにしてあげてくださいと何度も頼みました。
ちょうど、ニッキィもフリープログラムをうまく滑走したそうで、ジュニア初年で、前回のウプサーラでのエリート戦、ニッキィにとっては今シーズン初めての試合は4位に終わりましたが、今回は見事優勝したそうです。
父にもそれを伝えました。
父が少しもちなおしてくれると、私もやっと買い物などできる気分になり、夕食の買い物を済ませて戻りました。
[PR]
by obreykov | 2012-04-11 05:57 | 両親

2011.12.03. 父もちなおす

ほとんど眠れない夜を過ごして、朝、8時になったので、面会時間ではなかったけれどICUに向かいました。入り口の電話で父の様子を訊くと「もちこたえて今は意識が戻っているのでどうぞ」と言われました。
私は天にも昇る気分で神様にお礼を言いたい感じで父のベッドへ急ぎました。
父の手を握り、「よかったよかった」と言いました。
11時の面会時間に再びいくと、ちょうど本家の兄嫁、つまり私の叔母とその娘と息子、従兄弟の次男と父の姉の娘、つまり私の従姉妹も面会に来てくれていました。
そのときは8時よりももっともちなおして、目も開けちゃんと手も出していました。
私がスウェーデンに来る時も反対していた父、それを仲立ちして助けてくれた従姉妹、従姉妹が父に「おじちゃん、私まちがったことしたのかなあ」というと手を出していました。従姉妹が誰にでも厳しかった父に「おじちゃん、またいろいろしかってよ、元気にまたおこってよ。」というと、本当、私だってまた父にしかってもらいたいと思いました。間違ったことが大嫌いだった父は自分の子供だろうと私の従姉妹従兄弟たちだろうと、ひどいときは家の近所で滑り台から石を滑らせて遊んでいるわんぱくものたちでさえ叱りつける様な厳しい人でした。
それがこんなにか細くやせ細ってしゃべることさえできなくなってしまうなんて。。。

14時の面会には母の弟夫婦も来てくれました。
叔母の声かけにちゃんと反応を示し、目も開けてもちなおしてくれたので、私はどんなにほっとしたことか。。。やっとものが口を通っていく様な気がして美味しくお茶を飲むことができました。
夕方には母をつれに家に戻り、18時の面会にいきました。
母のこともわかるのか目を開け、手を握ったり、「あーあー」と声も出してくれました。
そして、また、父の目から涙が。。。

ちょうど、スウェーデンでは今シーズンは膝の具合が悪くてほとんど試合に出ることができなかったニッキィがエリートシリーズのストックホルムでの試合に出場していました。
ネディの話では、ショートがとてもよくできて何と1位にいるという報告もあったので、父にもそのことを伝えました。明日のフリーは応援してね、というと手でぎゅっと私の手を握りました。

あまりにうれしくて、母と待合室で時間をつぶし、19時30分の面会もして帰りました。
料理など作る気分にも慣れず、母と二人病院の食堂でうどんを食べてタクシーで帰りました。
それにしてもよかった。。。神様本当にありがとう。。。
[PR]
by obreykov | 2012-04-11 02:28 | 両親

2012.12.02. 父危篤

いつものように母をデイサービスに見送り、11時の面会に行こうと準備しているとしばらくして、病院から電話がありました。「国立病院です。」と言われた時は、心臓が凍る様な気がしました。
意識がなく、すぐにでもくることができるかというのです。
私はすぐにみつぐ苑に電話をして母を待機させてもらい、迎えにいきました。叔父叔母にも電話をして病院に来てもらいました。
全く反応がありません。
医師が、駄目かと思ったが少し状態が良くなり、意識はないが小康状態だ等説明してくれました。
どちらにしても週末でもあるため、私は銀行に行き、少し現金を用意することにしました。
母は叔父たちが家に連れて帰ってくれました。母がアルツハイマーが手伝ってか、あまり危機感がない様なのでかえって助かります。
私が銀行などに行ったりしている間、本家の父の兄嫁が14時の面会に来てくれたそうですが、そのときも反応がなかったそうです。
私は18時の面会にいきました。
前日は涙をこぼしたじゃない、どうしちゃったの、と語りかけるけれど、手も出さないし、目も開けないし、ただただ苦しそうな人工呼吸器の音だけが響きます。
あちらこちらのベッドでもピーピーと器械が鳴っていて、看護士たちが走り回ったり、本当にドラマでも見ているのか、と錯覚するほどでした。
医師は小康状態で、何とも言えないと言います。
このまま、残ってくださいとも何とも言えないと言います。それが本当のことなのでしょうけれど、私は一体どうしたらよいのでしょう。
連絡があって30分以内には来ることができる、ということをお互いに確かめ、とにかく私は母もそのままだったので、家に戻りました。
叔父たちが母と一緒にいてくれて、私たちは夕食をとり、叔父が帰る時に私は病院に送ってもらうことにしました。
こんな時でも人間はお腹がすくのが何とも不思議でした。
母は元々一人暮らしになれているし、心配ないというので、連れて行っても疲れさせるだけなので、私一人で向かいました。

完全看護の集中治療室のため、家族の泊まるところなんてありません。でも、家族用の控え室があり、看護士さんが案内してくれたので、そこにとりあえず泊まることにしました。
その日は大きな部屋に一家族いました。私は奥の小さい部屋に座りました。売店で買ってきた雑誌も見る気にもなれません。
部屋が暑くて、売店の方へ行き、飲み物を買いにいったりしました。
戻ると先ほどまでいた家族はいなくなっていたので、私は大きい部屋に一人座りました。ソファに長くなっても眠れるはずがありません。
外で足音がするたびに、看護士が私を呼びにきたかと思ってドキッとしました。
暑くて暑くて空調で一番低い温度にしたのに、息苦しいほど暑い感じでした。でも、父はもっと辛いのだろうと思いました。。。
[PR]
by obreykov | 2012-04-11 02:07 | 両親

2011.12.01. 父の涙

12月1日は父の母、つまり私の祖母の祥月命日でした。
私は私の母方の祖母の祥月命日に生まれています。夫は誕生日に父親を亡くしています。叔父の誕生日に叔父の叔父が亡くなりました。ニッキィは夫の叔父の祥月命日に生まれました。
何か、こういうことって家族の中でつながっている様な気がして、私はこの日、12月1日、ニッキィの誕生日の5日、など、ちょっと気になる日にちでした。

この日は母をみつぐ苑のデイサービスに見送ったすぐあとに佐賀に住む父の妹の長男が駆けつけてくれました。
このいとこは大学生の頃東京の大学に行っており、下宿先が私の家のすぐそばだったこともあって、よくうちに食事に来ていたりして、歳も同じなことも手伝い従兄弟の中ではとても話しやすい頼りになる存在です。
しかも、父が一番愛した末っ子の妹の長男なので、私の父も私が嫉妬するほどかわいがっていました。
お茶を飲んでほとんどすぐに出かけ11時の面会をしました。
前日より、少しよくなっているのか、手など少し暖かくなっていました。
無意識のうちに苦しいからか、人工呼吸器や、胸から水を出すための管などをとろうとするためか、手はガーゼのグローブの様なものをかぶせられ、ベッドに固定されているのが何ともいたたまれませんでした。
でも、看護士さんたちの話では、それだけ力が出てきた証拠であるということで、私たちが来ているので、ガーゼのグローブは外してくれました。
せっかく従兄弟が来てくれているのに、目はとうとう開けませんでした。
でも、従兄弟の声かけに反応して、手をだし、従兄弟が握るとちゃんと握り返したようでした。

従兄弟の父親は実は11月9日に亡くなっています。
私は、熊本に行くたびに血はつながっていなかったけれどこの叔父が好きで必ず電話をしていました。
叔母はあまり体調が良くなく電話で話すこともなかったのですが、叔父とはかなり長話をして楽しいひと時を過ごしていました。夏に日本へ帰った時も叔父と北京経由で来て大変だったこと、叔父が大連にいた時代のこと、いろいろな話をしました。
「絵美子にもあいたいなあ」と叔父は言っていました。今度ゆっくり会えるよっていって、とうとう会いにいくこともなかったのですが、まさかあの叔父が亡くなってしまうなんて。。。叔母は父の妹で、母同様に少し惚けが始まっているようで、私は叔父を亡くして叔母ががっくりしてしまうのではないかととても心配していたのに、惚けが助けになって、あまりがっくり来ていないということでした。

叔父は癌だったのですが、最後は父と同じ人工呼吸器をしていたそうです。
これは極新しい人工呼吸器でかなり性能が良いらしく、ちょっと前だと挿管しなくてはならない状態だったそうで、ほぼそれと同様の効力のある人工呼吸器だそうです。
佐賀の病院にはその装置がなく、福岡の病院から借りてきていたそうです。
父の入院した熊本の国立病院は改装されて間もなく設備もすばらしいものでした。
まるで、ドラマの中にいる様な感じでした。
叔父の場合、会話もできる状態だったので、その人工呼吸器がとても辛いものであることなど話していたそうです。「お願いだから、今度寝たらもう起こさないでください。」とか「その人工呼吸器だけは辛いのでつけないでください。」などと言っていたそうです。
かわいそうに父はそんなことも言えず、ただただ辛そうな息をして寝ています。時々「あーあー」と辛そうな声も出していました。
医師や看護士も説明してくれなかったその装置こと、数値の見方なども従兄弟が説明してくれました。
自分では呼吸ができないので、機会が酸素を送るだけでなく二酸化炭素を出すように工夫されて、無理矢理呼吸をさせられているようでした。

従兄弟と私のことがわかったのでしょうか。父は手を出してくれました。
私が子供のときつないでくれた父の手はすっかりむくんで私の知っている父の手では亡くなっていました。
肩はこれ以上細くなれないというほどやせ細っています。

集中治療室は重病人ばかりで面会も時間が決められて長くいることもできないので、従兄弟とその場を立ち去りました。
二人で久しぶりに中華を食べにいきました。
従兄弟も自分の父親を亡くしたばかりなのに、私のことを気遣ってくれて本当に力になりした。

私の祖母は私たちが生まれた年は忙しかったとよく話していました。末娘のところにこの従兄弟が2月に生まれ、そうこうしているうちに春になると私が、夏になると父のすぐ上の姉のところにもう一人の従兄弟が生まれ、九州と東京を行ったり来たりしていたそうです。

従兄弟が私を家まで送ってくれ、しばらくするとデイサービスから母が戻ってきました。
母も自分とは血がつながっていなかったけれどこの従兄弟はとてもかわいがっていたので、大喜びでした。
従兄弟は佐賀まで帰らなくてはならないので、分かれ、私と母は18時の面会にいきました。
状態はほとんど同じでしたが、私たちが話しかけていると父の目から涙がにじんできました。
父の涙を見たのは初めてかも知れません。
ティッシュで拭ってあげました。でも、またしばらくすると父の目から涙が。。。
私たちがいることがわかったのでしょうか。何を言いたかったのでしょうか。

夏には悠長にに会話という訳にはいかないまでも、父とちゃんと会話を交わすことができました。でも今はこの父の涙で、私は一体何がわかるのでしょう。。。
[PR]
by obreykov | 2012-04-11 01:49 | 両親

2011.11.30. 昨日とはうってかわって。。。

母がみつぐ苑のデイサービスに行ったあと母の一回り年下の弟、私が4歳の時から私の家で暮らしていた叔父なので、まるで一人っ子の私には歳の離れた兄の様な存在の叔父が私を迎えにきてみつぐ苑の父の荷物をとりにいくのを手伝ってくれました。
入院んをした時点で一時退所ということだそうです。
金曜日私が叔父から父が入院したという連絡をもらった日、呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたことなど説明を受けました。
どんなに辛かっただろうと思うと今更ながらかわいそうでなりません。
我慢強い人だったので、きっと我慢に我慢を重ねていたのでしょう。父が住んでいた「かき」の部屋からは荷物が出されており、父の着替えや身の回りのもの、そしてみつぐ苑に飾ってあった父が描いた油絵数点を持って帰りました。
父がよく子供たちを連れて行ってくれた温泉城の湯の隣のリンガーハットに叔父が連れて行ってくれました。
ここである夏食事しにいくと父の車に乗っかってきてしまった庭に住んでいたアオガエルがドアを開けたとたんに飛び出して、夫がそのままにしたら死んでしまうと、あわてて捕まえて車にいれ、家に連れ帰ったこともありました。そのアオガエルは長いこと庭の物干竿の穴に住んでいて毎年顔を出しているアオガエルの家族の一匹だったのです。
そんな思い出が走馬灯のようによみがえりました。父が元気な頃はよくここに子供たちをつれてきてくれていたなあ、と思いました。
そのあと私は14時の面会にいきました。
前日のあの元気な父とはうってかわって、反応はほとんどなく、手足も冷たくてとても心配になりました。
母はデイサービスから4時半すぎ頃にはもどるのですが、私は18時の面会もすることにして、少し買い物をしてどっとつかれたので、謙が気に入っていた喫茶店に入りました。一人でこんな喫茶店に入って抹茶オーレというものを注文し、心配でなんだか涙がぽろぽろとこぼれてしまいました。隣の席の外人男性がびっくりしていたようですが、変にああ、この人日本人じゃなくてよかった、と思いました。あれは一体どういう気持ちだったのでしょう。。。母にはもう一度だけ面会してから戻ると連絡をしました。
18時まで少し時間があったので、待合室で悲痛な感じで待っていると、私くらいの歳の三姉妹がお母さんの面会を待っていました。急な入院だったのか、あわてて面会に来た様な様子の方たちで、携帯の使い方などで姉妹で軽い言い争いをしているのが熊本弁で面白く感じ、心配で悲しかった私の心にちょっと暖かいものを感じました。また、こうして悲しみを分かち合える姉妹がいる人たちを本当にうらやましく思いました。
18時にもう一度面会にいきました。昼とは違って、ほんの少し反応がありました。少しだけ目を開けた様な開けないような。。。前日のあの様子は何だったのだろうと思うほど、状態が悪くなっていたので心配でしたが、少しだけ反応があったので、神様に祈るのみです。
主治医の先生や看護士さんたちはとてもよくしてくれているようでした。
でも、父がこんなに苦しんでいる様な感じで、人工呼吸器の音がとても苦しそうに響くので、先生が見回りに見えた時は「くるしいのですか?」 と訊きました。そんなこと元気な先生や私たちにわかるはずがないのに。
「とにかく本人が苦しくないようにしてあげてください。」と言いました。でも、それはどういうこと?
医師は今していることは延命治療ではなくこれはあくまで肺炎を起こしている治療だそうです。その治療のためにこの呼吸器をつけ、肺からほんの少しずつ水を吸い出し、そして水分と栄養分を補給しているということでした。
一体父はよくなるのだろうか。肺炎がよくなっても父のPSPという病気は治らないではないか。。。
今、少し治ったって、またこんなことの繰り返しで。。。と思うと不謹慎にも早く楽にさせてあげたい、と思ってしまいました。
ミミが亡くなった時は安定剤を打たれ、私たちと安らかなひとときを過ごし、最後に筋肉収縮剤を打たれ、本当に眠るように亡くなっていきました。
そんなこと父にしてもらおうとは思いませんでしたが、かといって、こんな苦しそうな呼吸器で飲まず食わずの状態で。。。見ているのが辛くてたまりませんでした。
[PR]
by obreykov | 2012-04-10 10:39 | 両親

2011.11.29. 従兄弟が見舞いにきてくれた

私が時々日本に戻っても、何となくいつでも会えるという感じで、とうとう誰とも特に会わずに過ごしてしまうことが多かったのですが、今回は父が入院ということで、父の姉の息子が福岡から早速見舞いにきてくれました。
まずは私と母とで街に出て銀行へ行き、一部定期を解約したりしました。銀行関係はすべて父がしていたので、母は、ほとんど何もできないのです。銀行で従兄弟と待ち合わせました。
この従兄弟は私が一番大好きだった叔母の息子です。福岡大学にいたので、私たちが熊本へ遊びにいくと広い家、叔母一人で住んでいたから必ず、この叔母のところに泊まっていました。
夜遅くまでこの叔母と母と私の3人でテレビを見ながらいろいろな話をして、夜中になってテレビがしゃーしゃーと音を立てて放送が終わるまで話していました。私は子供だったのに、叔母と母の会話に一緒になって夜遅くまで起きていました。お墓参りに行く時はお嫁に出ていた叔母のお墓は本家の墓よりも大きいくらいだったので、よく叔母が「ここにはいるといいわよ。」なんて冗談で言っていたのですが、そんな叔母も早くも亡くなってしまい、従兄弟は早くに両親を亡くしてしまいました。
そんな思いをしたら、私なんて幸せだと思わなくてはなりません。
父と叔母は決して似ていた訳ではないのに、何故か私の従兄弟は私の父によく似ていました。
そして、今回待ち合わせたとき、向こうから歩いてくる従兄弟を見て本当にびっくりしました。歩き方から雰囲気から私の父にそっくりなのです。
まずは3人で鶴屋のレストランで食事をして14時の面会にいきました。
父は、私たちのことがよくわかったようで、目もしっかりと開け、手も出して従兄弟や母や私と交互に手を握り、「あーあー」と声も出して、うれしそうでした。顔も自分であちらを向いたりこちらを向いたりして、ベッドの両脇にいる私たちを交互に見ていました。
昨日より全然元気そうだ、と私は思い、とてもうれしい気分で家に帰りました。
タクシーで従兄弟も家に連れてきてゆっくり話しました。
このまま父が元気になる様なそんな嬉しい気持ちでいっぱいでした。人工呼吸器が少し苦しそうなのだけが気になりましたが、目もはっきりと開いて頭を右左に動かしていたので、本当にうれしく思いました。
[PR]
by obreykov | 2012-04-10 10:02 | 両親

2011.11.28. 入院中の父と初めての対面

母は、いつも通りデイサービスに行ってもらいました。父に会いにいかなくては、という強い気持ちもない様なので、助かりました。9時半頃迎えにくるので、それを見送り、叔父夫婦が私を迎えにきてくれました。
国立病院のICUは、面会時間が11時、14時、18時、19時と4回でしかも一度は30分以内と決められています。
はいる時も手を消毒し、マスクをかけ、内線の電話で名前を名乗り、面会の許可を受けてから中に入るのです。
中に入ると、テレビの救命のドラマを見ているかと思うほど、ドラマの中のようでした。
沢山のベッドに瀕死の病人がずらっと並んでいました。これからみんな元気になっていくのか、あの世へ旅立っていくのか、なんだか、変に冷静な私でした。
叔父夫婦に案内され、父のベッドのそばまで行きました。24番のベッドよ、と教えられても、24番のベッドにはあまりに小さい人が横になっているので、一瞬、それが私の頼りになる父とはわかりませんでした。
子供が生まれてから父のことは「じっちゃ」母のことは「ばっちゃ」とよんでいました。ネディがそのようにやっと言葉が出る頃呼び始めたのがそのままになってしまったのです。
私は父と母を「パパ」「ママ」とよんでいました。でも、考えても見たらじっちゃばっちゃと呼ぶようになった方がパパママとよんでいた時間より長くなっていたのでした。
私は「じっちゃ!」と声をかけました。元々細かった人ですが、もう本当に小さくなってしまった父がうっすらと目を開けました。
私のことがわかったのでしょうか。
ネディから預かってきた写真を見せて、ネディの手紙を耳元で読んであげました。
ちゃんと聞こえたのでしょうか。
父はもの凄い装備の人工呼吸器をつけられ、もの凄く苦しそうな息をしていました。
胸からは肺の水を少しずつとるという装置をつけられていました。
担当の医師も来て、いろいろと説明をしてくれました。
延命治療をしないでほしいという本人の署名された書類があるが、とにかく娘がくるからそれまではなんとかしてほしいという親戚の意向でこのような装置をつけているという説明もありました。
私は父が元気で若い頃から、人の世話になってまで動けなくなってまで、生きていたくはない、延命措置などしないでほしいと言っていたのを良く知っているので、父の気持ちを尊重して延命はしない方針に同意しました。

いつもは日本へ行くと見るもの見るもの欲しくなるほどショッピングが楽しかったのに、今は何を見ても目に入らず、とりあえず、母と夕食をとれるように出来合いのお弁当やらお惣菜やらを買って家に戻りました。
母は元気そうに夕方デイサービスから戻ってきました。
[PR]
by obreykov | 2012-03-12 08:25 | 両親