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2011.11.25. 父の入院

2011年の11月25日早朝、日本では既に夕方、珍しく母の弟から電話があり、あとで電話をしてくれというので、「父のこと?」と訊くと、そうだというので、心配していたら、すぐに母からも電話がありました。
母の弟は母のところから母がトイレに行っている間を見計らって電話をしてきたのでした。母は結構しっかりして、父が肺炎を起こし、急遽入院したというのです。そのすぐあとに叔父に代わってもらい、いろいろきくととにかく入所していたみつぐ苑で父が呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたので、入院させようとしたけれど、どうしても入院したくないと言っていたので、ちょうどデイサービスに行っていた母をよんで説得してもらおうとしたらしいのです。母が「今死なれては困るのよねえ。。。」というと、父はすぐに納得して国立病院に即入院ということになり、母の弟、私の叔父がすぐに来てくれて入院の手続きをとり、夕方までかかったということでした。
私は「私もそちらに行った方がよいのかなあ。。。」と、叔父に言うと叔父は「そのほうがよいと思うよ。」と言いました。
夏に日本に行っていた頃、医師がPSPでは、最後には自分で嚥下できなくなり、誤嚥性の肺炎を起こした時は覚悟をした方がよいと言われました。
嚥下できなくなると、栄養補給は胃に管を通すようになるけれど、父は入所する際に胃に管を通したり、気管に管を通したりなどは決してしてほしくないという書類にサインをしていました。元気な頃から自分が病気などで駄目になる時は延命措置は決してしないでほしい、と言っていたのを私は良く知っているので、もう、だめか、と思ってしまいました。
すぐにチケットを手配しましたが、一番早く行ける便でも翌日の夕方の便でした。
ニッキィのスケートもやっとこれからエリート戦なども出て、スウェーデン全国選手権を控えていたので、トレーナーのターニャにも連絡をしました。
夜にはターニャも「こんな時間に電話して申し訳ないけれど、ニッキィの練習のためには私が迎えにいったり送っていったりできるから遠慮なく言ってほしい。」とまで言ってくれました。
自分も両親を亡くした経験があるからわかるけれど、人生はまだまだ続いていくのだから、強く受け止めすぎないように、子供もそして家族もいて、人生がまだまだ続いていくのだから、とも言われました。

26日の夕方の飛行機でフランクフルト経由で成田に到着して福岡、そして福岡から高速バスで熊本まで行きました。
私がついたのは27日、もう夜遅くなってから。。。
母は意外に元気そうで安心しました。
父の病状を受け止められないのか、事の重大さがわからないのか。。。

母は、私が2010年の夏にイヴとニッキィとで日本に行った際、ひょんなことからもう何年も前に亡くなっていた母の叔母のお見舞いにしばらく行っていない、なんて言い出したので、おかしいと思ったのでした。
庭仕事のこともいつも父がストックホルムに来た際にすべて庭仕事をしてくれていたのに、このごろ来てくれないから庭や植木がすごいことになっている、夫のよく手伝いにきてくれた友達のドブリも亡くなったし、などと話していると、ドブリも亡くなったの?などと、良く知っているはずのことなのに、まるで初めて知った様な言い方。。。
そのころデイサービスに行っていた父の方が、「しっかりしろよ、何言っているの?」などと笑っているくらいでした。
私は、その夏、田んぼのある道で転んでしまい、傷がなかなか治らず化膿したので、父と母のかかりつけの医者に見てもらっていました。そのとき母の様子を医師に説明し、心配していることを言いました。
ちょうど私たちが日本へ行く直前に母は街に買い物に行った際、エスカレーターから落ちて脚のすねをかなり切り、救急車で救急病院に運ばれたのでした。そのとき、頭もうったらしく、レントゲンなども撮ったけれど異常はなかったのでした。
でも、医師が内出血をして脳を圧迫している場合、たまに記憶が喪失する場合があるけれど、その出血を取り除けば元通りになるから、CTスキャンをとってみましょう、ということで、CTスキャンをとってもらいました。
しかし、何の内出血も見つけることができませんでした。
そこで、MRIをすることになりました。
すると、まだ初期段階ではあるけれど明らかにアルツハイマーの脳の萎縮が見られることが診断されました。
それで、母も介護保険の認定を受けることにして、父が入所するから一人暮らしになるし、父に会いにいくということも含めて、と母に話して、母もデイサービスを受けることができるようにしたのでした。
母は至って元気で、普段通り明るく人との関わりもとてもよく、他人が見たら、全く正常な元気なおばあさんという感じです。でも、一緒に生活するとやはり、つい先ほどの記憶が途絶えているのがわかり、同じことを何度も訊いたり、同じものを何度も買ったり、という感じでした。
でも、それがゆえ、父の病状が大変な状態であることをきちんと理解できないのか、それもそれでよかったのか、という感じでした。
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by obreykov | 2012-03-12 08:06 | 両親

父の病気

はじめは脳の収縮が見られるのでアルツハイマーだと診断された父でしたが、記憶がどうかすると私たちなどよりよほどしっかりしているので、おかしいなと思っていました。
あとで父の病気はPSP(進行性核上性麻痺)という10万人に数名というまれに見る病気だったことがわかりました。運動を司る脳の収縮が見られるために運動、および内蔵の運動機能が低下して、転倒しやすくなったり、うまくしゃべることができなくなったり、さらには誤嚥などが生じてくるという難病でした。
気位が高く、人の世話になることなどできない性格のまじめな父でしたから、あの当時の葛藤は相当なものだったのだろうと今にして思えば、気の毒でなりません。
転倒が多くなり、お風呂場から出てくることができなくなった時は細い父でしたが、さすがの母も助けるのがとても困難で、これでは心配だということでかかりつけの先生がケアマネージャーと相談して要介護の申請をしてくれました。
人に頼ることが嫌いで、人に頼られる様な人だったので、介護保険がもらえても果たしてデイサービスに通うようになってくれるだろうか、と私たちは心配しておりました。
ところが、とても喜んで第一日目が終わり、それからは週に3回デイサービスに通うようになったので、私たちはびっくりすると同時に母もゆっくりする時間ができたし、入浴を家出しなくて住むようになったのが何よりの助けでした。
毎年3ヶ月スウェーデンに来ていた父と母でした。どうかすると冬も夏も来たりしていたのですが、2006年仁木て、一緒にブルガリアに行ったのが父のヨーロッパ訪問の最後になってしまいました。
ブルガリアには3つマンションがあるのですが、その一つは父と母がいつでも使ってよいと夫が言って二人専用にしてあげたのに、結局は一夏しか使わずに終わってしまいました。
その年は、先代のゴールデンのミミともよく散歩をしていましたが、ゆっくりゆっくり歩いていたのを思い出すとあの頃から病気は始まっていたのかもしれません。
2007年の夏にはネディと謙は東京に行っており、その間1週間熊本にやってきました。私とイヴとニッキィは熊本へ行きましたが、そのときも今思えば出不精になっており、お祭りなども一緒に行こうともしませんでした。
きっとあの頃から身体も辛くなっていたのでしょう。
2008年には父もこちらには来ないというので、私たちはブルガリアに行きました。ネディだけが秋に熊本に行きました。そのときネディとぼした祭りなどに行ったり、映画を見に行ったりしたというので本当にびっくりしました。
そしてその年父がかわいがっていたミミちゃんも亡くなってしまったのでした。
2009年の始めには母が風邪をこじらせ肺炎を起こし、ほとんど死にかけていて私は急遽熊本に帰ったのでしたが、そのときの父を思い出すと、私の知っている父ではなくなっていた感じがして本当にびっくりする矢ら悲しくなるやらで、一人でお墓参りに行きながらお墓の前でわんわん泣いてしまったのを思い出します。
あの頃の父は自分でも身体のいうことがうまくきかなくなっている自分にどう対処してよいかわからず、きっともの凄い葛藤のなかにいたことだろうと思います。
母のお葬式かと覚悟していったけれどなんとか回復してくれて、本当によかったのですが、その頃から両親がすっかり歳をとってしまったのを自覚せざるを得なくなりました。
そして、毎年避暑をかねてきていた両親もこちらに来る元気がなくなったのか、私たちが日本へ行くようになりました。
そのころから父のデイサービスも始まりよく2010年に熊本に行った時はすっかりデイサービスに慣れていた父でした。転倒も多くなったので、何度びっくりしたことか知れませんが、イヴとニッキィは父にとっては自分が世話をしてあげる小さい孫と言う気持ちがあるのか、イヴもすっかり大きくなっているのに、イヴの手を借りたりしようとせず、その辺がやはり気位の高い人だ、と思いました。
秋になると父の転倒が頻度を増してきて、母一人ではとても大変な状況になってきて、少しずつショートステイというサービスを受けるようになりました。
母が一人になって心配でしたが、思ったより元気に過ごしていたし、何よりも父が家で転倒したりする心配が亡くなったのが何よりでした。
秋休みには謙を連れて2週間でしたが、熊本へ行きました。
すぐに父を迎えにいきました。
謙を見た時の父の喜んだ顔は今でも忘れられません。
父にとって初めての男の子で自分の名前をとった謙には特別の感情もあったでしょうし、大人になっている謙には心を開いて私や母には決して助けを求めなかったのに、謙には腕を借り、ベッドから起きるのも転倒した時に起こしてもらうにも、またトイレに行くにもベッド脇においてあるトイレに移動するにも謙の助けを借りてくれました。
謙も元々心の優しい子なので、それはよくしてくれました。私や母ができないことを彼がちゃんとしてくれたので、私は謙をどんなに頼もしく思ったことか。。。それは父にしても同様だったと思います。
私たちが熊本に行くと必ず行く近所の養鱒場の料亭に行きました。
そのとき初めておじいさんと孫が晩酌しました。
大酒飲みではなかったけれどお酒を嗜むのが好きな父に似て謙もアルコールには強いようで、二人楽しそうに飲んでいました。男の子が欲しかった父は、本当にうれしかっただろうと思います。
それが最初で最後の話が孫との晩酌となってしまいました。
そして、デイサービスのみつぐ苑で入所できるようになったので、11月から入所をすることになりました。
それも不思議なように父が承知して、入所する日も私や謙や母と一緒に家を出て、まるでどこかへでかけるがごとく、極自然に家を出て、そして2度と父の愛した父が建てた沢山の父の植木のある花園の家に戻ることはなかったのです。
翌2011年の夏にはぜひ父を家に戻してあげたくて、ほかの子は足手まといになるだけだろうと思って我慢してもらい謙と私だけで熊本に行きました。
でも、そのころの父の様子を一目見ただけで、家での生活は全く不可能だということがわかり、誰も父に戻ろうとも言わなかったし、また、父もそのことがよくわかっていて、「家に戻りたい」とは言わなかったのだと思います。
でもたどたどしくも私たちが「会いにきてくれるのが一番うれしい」「せっかく来てくれたのに何もしてあげられなくて申し訳ない」などと言っていました。
謙がパソコンを持っていき、昔のビデオを見せてあげると、それこそ20数年前にまだネディが赤ん坊の頃ストックホルムの島の別荘で数家族集まってザリガニパーティーをしている時、みんなで酔っぱらってそれぞれが歌を歌ったりして大騒ぎしているビデオなどうれしそうに見て歌の上手だった父が酔って「君が代」などを歌っているところなど2度も見ながら一緒に歌っていました。
もう一度、家に戻してあげたかったけれど、一度戻ったらよけい辛くなったかもしれないと思って、私もどうしてよいかわからない感じでした。
母は「よほど居心地がよいのか、帰りたいって言わないのよ。」など言っていましたが、私は父が自分の病状を知っていて家での生活はたとえ1日でもかなり困難であることをよく理解して帰りたいと言わないのだということがよくわかりました。
自分でできるだけ食事もとるようにしていたようですが、謙に手伝ってもらったりして車椅子も押してもらって、子供が生まれたとき父がどの子も私の従兄弟たちも含めて沐浴させ寝かしつけて遊ばせていたのに、今はその孫たちが父の世話をするのか。。。と思いました。
謙は私より一足先にスウェーデンに帰ったので、果たして私の手を借りるかと心配していましたが、謙がいないので、私にも車椅子を押させたり、靴を脱いだりはいたり、また食後手などをぬれタオルで福野を手伝わせてくれました。父は手が汚れているのがとても嫌いな人で、手が汚れるからといってあまりオレンジやぶどうなど食べるのが嫌だったくらいだったので、少しでも手がべたべたしているのが嫌な人だったのです。

ああ、でも私はこんな年になっても両親がいたし、4人の子供にも恵まれ、毎年両親も来てくれ、幸せだったと思わなくてはならないかもしれません。私の両親は今の私の歳にはもう、自分たちの両親はいなかったのですから。。。また、我が子も2歳で失っていたのですから。。。

これが2011年の夏でした。
そして11月25日に父が誤嚥性の肺炎になり、急遽入院したという知らせがあり、私はすぐに飛行機のチケットをとり日本へ向かいました。
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by obreykov | 2012-03-11 09:06 | 両親

新しい年を迎えて

新しい年を迎えて、もう雛祭りもおわりました。

こんなに、長い間書かなかったのは忙しかったばかりではありません。
この日記をつけ始めたのは、遠く日本にいる両親が、すきなときに、こちらの様子を垣間見る事が出来るようにと思って始めたのでした。
それなのに、その父は、12月14日この世を去っていきました。
パソコンなんて扱えない母が一人で見ることも出来ないこの日記をつける気分になれませんでした。
父が亡くなってから、不思議と父が、もっと傍にいる気がして、悲しく思わなかったのに、こうして書き始めると涙が込み上げて来るのは、どうしてだろう。
でも、子供たちにも祖父の最後を後々知っていてもらいたいので少しずつ書いていこうと思います。
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by obreykov | 2012-03-04 21:01 | 両親

2009.01.30 母の退院

まだ完治しては居ないのですが、家事などしない絶対安静を条件に母が退院して良い事になりました。
今日は、叔父夫婦がいつものように車で駆けつけてくれて父と私を乗せて、母の病院へ行ってくれました。

退院のとき、全員で院長先生から病状の説明などを聞き、本当に風邪が原因ではあったけれど、ほとんど手遅れ状態になっていて、肺腑種や、心臓肥大なども起こしてあと一歩で心筋梗塞さえ起こしそうになっていたようでした。
まあ、とにかく、完治はしていないものの、私がいる間に一度退院をして、今後の生活の練習をするようにという所です。

とりあえずは、ケータリングの会社もあるようなので、叔母が調べてきてくれて、早速、夕方その会社の人も訪問してくれ、説明を受け、月曜日からそれを利用してみる事となりました。
父はそういったものが大嫌いな性格ですが、とにかく私がいなくなってから、日々の買い物もできない状態で、家事も暫くはしないようにという事で、二人が完全によくなるまではそれで我慢して、と何とか強引に説得したのでした。
話を聞いてみるとこの辺でも数件利用しているようで、二人の生活にはかえってこんなものを利用した方が安上がりで、しかもカロリーや塩分などもしっかり計算されていてよいようです。
スウェーデンにもこんなのがあるなら、私はぜひ利用したいと思いました。
スウェーデンでは、ピザしか出前がありません。風邪をひいた時などうどんなどの出前がほしいとよく思いました。

久しぶり、母とゆっくり家でおしゃべりをして過ごしました。
夕食は叔母が持って来てくれたお赤飯と母の親友がわざわざ私のために新潟から取り寄せてくれた鮭を焼いて食べました。
母も喜んで食事をしてくれたし、この鮭は本当に美味しいものでした。
私もスウェーデンに帰ったら、塩水につけて塩鮭にしてこうしてアルミフォイルで包んでオーブントースターで焼いてみようと思いました。

夜は、テレビをそのままつけて母と話していると手塚治さんの特集をやっていました。
鉄腕アトムなど、懐かしいマンガも出てきて、見ているとリボンの騎士も出てきました。リボンの騎士を見ると思い出すのが、叔父です。
叔父が私がまだ小さい頃我が家に住んでいた頃、かならず、私に「なかよし」とか「りぼん」とか言う月刊の少女誌を買って来てくれていました。
私はリボンの騎士が好きで、いつも待ち遠しく待っていました。
だから、大きくなっても大人になってもこのリボンの騎士を見るたびにこの叔父のことを思い出していました。
叔父の部屋に行って、プロレスごっこをして「力道山の空手投げ』などといいながら布団の上に投げ飛ばされるのが大好きでした。

母の二人の弟の面倒を見た父も本当に素晴らしかったんだな、と思います。
そんな父が今は年を取ってイライラしたり怒りっぽくなっているのを見ると、心が痛みます。

父と母のところには還元水という身体によいという水を作る器械が備え付けてあります。私の従姉妹のご主人がその販売をして居るのですが、ちょうどカートリッジの交換時期になり、今日取り替えに従姉妹と一緒に来てくれました。
いろいろな話をしていて、『おじちゃん、イライラする時は還元水を飲んで腹式呼吸をするとよいですよ。また、俺が俺がの我をすてて、おかげ、おかげのげで生きていくとよいですよ。』という話に私は感動しました。
俺がした、俺がしてあげた、と自分中心に考えるのではなく、だれそれのおかげで今の幸せな自分があるという考え方に切り替えると自然に感謝の気持ち、優しい気持ちがわいてくるという理論です。
私も時間に追われイライラする毎日を過ごし、家族に当り散らしている事もよくもありますが、このように少し考え方を変えるとずいぶんと変わるだろうと反省しました。
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by obreykov | 2009-01-31 01:00 | 両親

2009.01.29 忙しい毎日

日本へきて、自分の仕事や子供の送り迎えや我が家の家事に追われる事はないものの、毎日病院通い、母の携帯の契約、病院、その他の色々な手続き、調べなくてはならないこと、などなど毎日あっという間に終わっていきます。
夫が2週間なんて短すぎる、もっと長期間行かなくては、といっていたのに、2週間しか取らずに来た私でしたが、昨晩も電話で、だから、2週間じゃ足りないといったのに、と言われてしまいました。
でも、私だって家族の事を全く考えないわけにもいきません。
父と母も大切であると同時に私の子供達も大切です。何とかなっているようですが、それと私の心配とはまた別の話。。。

母はおかげで、酸素吸入も取れ、まだ完治してはいないものの、退院をしても良い事となり、絶対安静が条件で明日、戻ってくる事となりました。
でも、正直なところ、病院にいてくれたほうが安心して居る事が出来ます。とはいっても私の目で年老いた両親が私がいなくなってどのように生活していくのかを見届けなくてもいけません。

昨日は病院のあとお墓参りに行って、親戚にも挨拶に行きました。そこには、叔母と従兄弟達が別の従姉妹を読んでいてくれて、今後どうして行ったら良いかの相談をしてくれましたが、結論が出るわけでもなく、。。。

二人がスウェーデンに来てくれるのならそれが一番安心ではありますが、もう、父が全くその気がありません。かといって母だけを連れて行くわけには行きません。母もそんな事出来ないといっています。
どうしてこんな遠いところにお嫁に行ってしまったのだろう。。。あの頃はそんな事考えてもいなかったのです。
でも、だからといって、一人娘で両親と離れられないから結婚できないなんて言えただろうか。またそうしていたら、現在の私はなくて、私の4人の子供も夫もいなくて、そんな生活想像も出来ないし、私はこの家族に出会えた事を本当に後悔はしていません。
夫も子供達も私にとっては大切な家族。そして、日本に残しているこの両親も大切な家族。

毎日、一部始終を電話で話せる母の弟夫婦がいるのが本当に私にとって大きな事です。
私の叔父であるわけですが、母と一回りも違っているのと私が小さい頃、我が家に住んでいて私の家から結婚をして巣立って言ったといってもよい叔父なので、私にとって、叔父であり、大きな兄であり、本当に頼りになる存在です。そんな人がいて、どんなに助かっている事か。
また、その奥さんも、私にとっては叔母というより大きな姉のような感じで、明るくて陽気で手芸が上手なその人は私とは血がつながっていないのに、とても私を可愛がってくれ、心配してくれ、本当に頼りになる人です。国際結婚なんて大反対をされると分かっている時、唯一相談できたのもこの叔母でした。
二人がまだ結婚していない頃、初めて家に来た彼女が家にあった毛糸でさっとモチーフを編んでこれを沢山つなげるといろいろなものが出来るのよ、と私にくれた時、一人っ子だった私はとても嬉しくて、本当のお姉さんが出来たような嬉しい気持ちでいっぱいになったのを今でもよく覚えています。不思議な事に、その二人に私の従姉妹が生まれた時は嬉しいより、私の叔父叔母をその従姉妹に取られたような嫉妬心が生まれたのも覚えています。でも、病院に初めて赤ちゃんを見に行ったら、そんな事すっかり忘れて嬉しかったのもよく覚えています。

母が具合悪くなってから、毎日のように食事を持って様子を見に来てくれたこの二人がいなかったら、母はきっと助かっていなかったでしょう。入院がもうすこし遅れたら、助かっていなかっただろうと医師に言われ、本当にどんなにこの二人に感謝している事か。。。
数年前に二人がこちらに引っ越してきた時はびっくりして、叔母が果たしてこんなところでなじんで生活していけるのだろうか、と心配しましたが、とても幸せそうに叔父の里での生活を二人でエンジョイしている様子を見て、私の両親のためにも、どんなに私は心強く、感謝した事か。。。

私の祖母はこの叔父を出産してまもなく亡くなってしまいました。
私がこの叔父と同じくらい好きで頼りにして居るもう一人の東京にいる叔父のやっと小学生になろうとしている頃の手を、今のニッキィの年の母がその幼い手を引いて、母親が亡くなった後、病院から家に歩いて帰った話を何度かきいた事があります。
幼い3人の子供を残してなくなった祖母はどんなに心残りだったろうと思うと、今、子供を持ってみてその無念さが良く分かるような気がします。私はその祖母の命日に生まれました。

夫が電話で、スウェーデンではなかなかサイズが合わずに買うのが困難な私の洋服を沢山買って来るように、といいますが、いつもの楽しい里帰りの時は、見るもの見るもの日本のものは素敵で洋服も靴も、家庭用品も何もかもほしくって買ってしまい、大荷物になってもって帰るのを四苦八苦するのですが、今回は、何を見ても、見るのも面倒で、とりあえず必要な下着やストッキングやらを買ったくらいで、人間、幸せな気分ではない時は物欲も何もなくなるのだなと思いました。食欲も余りないみたいです。いつもはあれも食べたい、これも食べたいと大変なのに、。。。今日は熊本の峰楽まんじゅうというのを一つだけかって店先で食べました。
いつもはまず10個買う品物です。一人だと食欲も沸きません。
生八橋も日本の空港につくとまず2箱かって空港で待ち時間に1箱食べてしまうのに、今回はやっと今日一箱食べ終わりました。

人は家族と周りのものがみんなが健康であれば幸せな気分になれ、食欲もやる気も何でも沸いてくるものなのです。
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by obreykov | 2009-01-30 00:02 | 両親

2009.01.25 日本にて

いつもだったら楽しい思い出うきうきしながら繰る日本でしたが、今回は本当にいやな帰国でした。
空港から直接母のところへ行くと酸素吸入もして本当に辛そうで、涙が出そうになりました。
でも、おかげで、だんだんとよくなりつつあるようで、昨日からは酸素吸入も取れ、多いな病院へ転院されることもなく、回復に向かっています。
入院が一日遅れていたら、手遅れになっていたそうです。
風邪の始まりの頃、起きる事も食事も出来なくなった母に救急車を呼ぼうかといった父に、救急車なんか呼ばないでといってそのまま食事も取らずに寝ていたようでした。
風邪は万病の元というとおり、私が叔父に様子を見に行ってもらいたくて電話した時、ちょうど叔父達も様子を見に行こうと出かけるところだったようでした。
そしてかかりつけの病院へ連れて行ってもらい、入院となったのですが、肺に水がたまり、呼吸が困難に成り、酸素不足から心臓も肥大して心筋梗塞を起こす寸前になっていたようでした。
もともとは急性気管支炎だったようですが、本当に風邪だからそのうち治るだろうと思うのはおそろしい事です。

父もうつっていたようで、熱がありましたので、私が付いた翌日叔父達に母の見舞いがてら父も連れて行き診察してもらって薬を貰ってきました。
もう、風邪の方は落ち着いたようで、大事に至らず、本当に安心しました。

ただ、父がかなりイライラして精神が高ぶっている様子が心配です。あんなにしっかりした人で厳しくはありましたが、優しい人だったので、困っています。
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by obreykov | 2009-01-26 00:26 | 両親

2009.01.16 つくづく遠いと感じる日本とスウェーデン

ニッキィのLKF杯も何とか無事に金メダルを獲得し、3回転や2回転アクセルも失敗には終わったけれど、ターニャはまずまずのできにまあまあ満足げだったので、次のステップにがんばらなくちゃ、と言うところで、グスタフくんとニッキィを乗せて車で戻りました。

しばらく父と母と話していなかったので、電話をしてみるとなんだかいやな予感がしていたのが当たって母が具合悪くなっていました。父の説明ではいまひとつ良くわからない上に、やっと電話口に出た母が別人のように苦しそうに話しているので、日本が8時になるのを待って、母の弟夫婦に電話して見ました。
叔母は、母が風邪を引いているのは知っていたようですが、その後、電話にも出てこないので心配して、9時になったら様子を見に行こうと思っていたところだと言うのです。
本当に叔父と叔母が熊本に引っ越してくれて、助かりました。二人が熊本に引っ越してからは本当に私も安心していられる感じがしています。
しばらくして、また父に電話をしてみるとちょうど叔父叔母が来ているところで、病院へ連れて行こうとしている最中でした。3日以上も食事が全くできなかったようで、体力も全くなくなっているようでした。
その日は点滴をして戻ったようでしたが、翌日も叔父叔母が来てみると元気がないので、また病院へ連れて行き、入院をすることになりました。

と言うわけで、私は心配で、この数日きちんと寝ていない感じです。電話をするにも時差が8時間もあるので、本当につくづくと日本とスウェーデンの距離を感じたこのごろです。

今日は、入院先の病院にも電話をしてみました。院長先生は往診でお留守でしたが、看護婦さんがいろいろと様子を教えてくれました。肺炎にはなっていなかったそうですが、風邪の炎症自体は喉にあった様で、そこから、呼吸ができなくなり、酸素不足になり、と言うことだったようです。酸素吸入をして、ステロイドの点滴をして、昨日の39度の熱は下がり、今日は食事も半分ぐらいは食べたようで、看護婦さんが普段の母のような感じになってきていると話してくれたので、安心しました。昨日はこのままの様子なら大きな病院に移そうと言う話を院長先生がなさっていたようですが、今日の様子ではこのままここで治療を続けようと言う方針にしたということでした。

私は、本当にこの距離を感じました。家族をそのままに飛んでいくこともできず、父の話ではなんだか要領を得ないし、でも、本当に叔父叔母が助けてくれて助かりました。
この叔父は私が小さいころ我が家に住んでいたし、母とは一回りも違うので、私にとっては兄のような存在です。そして叔母も叔母とはいっても、私が小さいころに叔父と結婚して私にとってはまるで血のつながった義姉のような存在です。
年も離れていて外国人との結婚のことを絶対両親は大反対をするのがわかっていましたが、この叔父と叔母には相談することができました。
頑固な父のことも良くわかってくれているので、プライドの高い父は人の助けを求めず、「自分でできる」と言い張りますが、叔母が食事も届けてくれているので、本当に助かります。

今日は、父も少しは安心したのか、素直に(?)ありがたがって叔母の持ってきてくださった食事や果物をいただいていたようです。
ネディと話したがっていたようなので、ネディに電話させると本当に声まで変わって大喜びしていました。

父も咳をしているので、きっと母の風邪がうつっているのだと思います。二人とも80を過ぎているので、風邪と入っても馬鹿にできません。
とにかく健康が何よりの宝です。二人が元気でいてくれないと私も心配で寝不足になって体を壊してしまいます。私が寝込めば我が家のみんなも体調を崩し始めます。

早く良くなってくれますようにと神様に祈るのみです。このごろ神様にお願いすることが多くなっております。。。

ニッキィは来週末、エンショーピングの試合、対戦相手はいるのか、まだ、エントリーが出ていませんが、とにかくその次の週のノルディックスでの予行練習になるようにノルディックスと同じプログラムでやらせるとターニャがおっしゃっていました。
つまり、3回転と2回転アクセルを入れるのです。

ストックホルム杯(Stockhoom Trophyのエントリーが出ました。3月4日から8日まで9カ国から437名が出場するのですが、フィンランドやロシアのすごい選手たちも来るようで、対戦相手が7人の上、ほとんどがひとつ上のクラス(少年15)なので、大変ですが、ニッキィにとってきっと良い経験になると思います。

日本のスケート協会ではメダルを取るために10年くらいの長期計画で強化選手養成のシステムを作って荒川選手やその他の活躍中の選手を育成してきたそうです。
まるで、共産圏時代のロシアのようだと思いました。そんな国に勝てるわけがないな、と思ってしまいますが、インターネットでいろいろ次々と見ていたら、ニッキィくらいの子供が簡単に2回転アクセルや3回転ジャンプをこなしているので、びっくりしました。
審判の詳しい成績表を見ると。たぶん着氷も良かった上にプラス点があちらこちらについていました。どんな練習をしているのかしら。。。

スウェーデンでは選りすぐった選手と言う前に、まず、スケート人口が少なく、特に男子はテストさえクリアすれば、全国大会に出場できるし、こんなところで対戦相手も少なくやっていても井の中の蛙だな、とつくづく思いました。
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by obreykov | 2009-01-16 21:25 | 両親

2007.02.16 じっちゃ、お誕生日おめでとう!

木曜日の朝、イヴが学校へ行く前に時間のゆとりがあったので、父にお誕生日おめでとうと電話をしました。そうしたら、「ありがとう、でも誕生日は明日だよ。」といわれてしまい、あ、またやってしまった、と思いました。
木曜日木曜日と私の頭にインプットされていたので、慌てて電話したのでしたが、実はここが木曜日の夜中に電話すると日本では金曜日の朝で、ちょうど父の誕生日だということだったのを思い出しました。
こちらは時差があるので、こちらが落ち着いた時間に日本へ電話をすると日本はもう1日の終わりに近づいているのです。ですから1日前の夜中に電話をするとちょうどよい計算だったのですが慌て物の私は、木曜日の夜中に電話するつもりが朝してしまったので、狂ってしまったわけです。
まあ、父は久しぶりイヴとおしゃべりが出来て嬉しそうでした。

そして、本当にその晩、夜中にイヴは寝ていましたが、謙もネディもちびのニッキィまでもがまだぐずぐずして起きていたので、またお祝いの電話をしました。
本当に16日になっており、父の誕生祝の電話が出来たというわけです。パパも数少ない知っている日本語の一つ、「お誕生日おめでとう」を言って、父も大喜びでした。

誕生日を迎えるたびに思うこと、それは健康でありますように、ということです。
父も母も健康で、誕生日を迎えることができて、本当に神様に感謝です。

次は謙の番。でも謙の誕生日の日はイヴの学校で親子で集まる会があり、ネディもニッキィも夜のスケートの練習があり、なんだかきちんと祝って上げられないようです。。。
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by obreykov | 2007-02-19 07:27 | 両親