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2011.11.28. 入院中の父と初めての対面

母は、いつも通りデイサービスに行ってもらいました。父に会いにいかなくては、という強い気持ちもない様なので、助かりました。9時半頃迎えにくるので、それを見送り、叔父夫婦が私を迎えにきてくれました。
国立病院のICUは、面会時間が11時、14時、18時、19時と4回でしかも一度は30分以内と決められています。
はいる時も手を消毒し、マスクをかけ、内線の電話で名前を名乗り、面会の許可を受けてから中に入るのです。
中に入ると、テレビの救命のドラマを見ているかと思うほど、ドラマの中のようでした。
沢山のベッドに瀕死の病人がずらっと並んでいました。これからみんな元気になっていくのか、あの世へ旅立っていくのか、なんだか、変に冷静な私でした。
叔父夫婦に案内され、父のベッドのそばまで行きました。24番のベッドよ、と教えられても、24番のベッドにはあまりに小さい人が横になっているので、一瞬、それが私の頼りになる父とはわかりませんでした。
子供が生まれてから父のことは「じっちゃ」母のことは「ばっちゃ」とよんでいました。ネディがそのようにやっと言葉が出る頃呼び始めたのがそのままになってしまったのです。
私は父と母を「パパ」「ママ」とよんでいました。でも、考えても見たらじっちゃばっちゃと呼ぶようになった方がパパママとよんでいた時間より長くなっていたのでした。
私は「じっちゃ!」と声をかけました。元々細かった人ですが、もう本当に小さくなってしまった父がうっすらと目を開けました。
私のことがわかったのでしょうか。
ネディから預かってきた写真を見せて、ネディの手紙を耳元で読んであげました。
ちゃんと聞こえたのでしょうか。
父はもの凄い装備の人工呼吸器をつけられ、もの凄く苦しそうな息をしていました。
胸からは肺の水を少しずつとるという装置をつけられていました。
担当の医師も来て、いろいろと説明をしてくれました。
延命治療をしないでほしいという本人の署名された書類があるが、とにかく娘がくるからそれまではなんとかしてほしいという親戚の意向でこのような装置をつけているという説明もありました。
私は父が元気で若い頃から、人の世話になってまで動けなくなってまで、生きていたくはない、延命措置などしないでほしいと言っていたのを良く知っているので、父の気持ちを尊重して延命はしない方針に同意しました。

いつもは日本へ行くと見るもの見るもの欲しくなるほどショッピングが楽しかったのに、今は何を見ても目に入らず、とりあえず、母と夕食をとれるように出来合いのお弁当やらお惣菜やらを買って家に戻りました。
母は元気そうに夕方デイサービスから戻ってきました。
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by obreykov | 2012-03-12 08:25 | 両親

2011.11.25. 父の入院

2011年の11月25日早朝、日本では既に夕方、珍しく母の弟から電話があり、あとで電話をしてくれというので、「父のこと?」と訊くと、そうだというので、心配していたら、すぐに母からも電話がありました。
母の弟は母のところから母がトイレに行っている間を見計らって電話をしてきたのでした。母は結構しっかりして、父が肺炎を起こし、急遽入院したというのです。そのすぐあとに叔父に代わってもらい、いろいろきくととにかく入所していたみつぐ苑で父が呼吸困難になってチアノーゼを起こしていたので、入院させようとしたけれど、どうしても入院したくないと言っていたので、ちょうどデイサービスに行っていた母をよんで説得してもらおうとしたらしいのです。母が「今死なれては困るのよねえ。。。」というと、父はすぐに納得して国立病院に即入院ということになり、母の弟、私の叔父がすぐに来てくれて入院の手続きをとり、夕方までかかったということでした。
私は「私もそちらに行った方がよいのかなあ。。。」と、叔父に言うと叔父は「そのほうがよいと思うよ。」と言いました。
夏に日本に行っていた頃、医師がPSPでは、最後には自分で嚥下できなくなり、誤嚥性の肺炎を起こした時は覚悟をした方がよいと言われました。
嚥下できなくなると、栄養補給は胃に管を通すようになるけれど、父は入所する際に胃に管を通したり、気管に管を通したりなどは決してしてほしくないという書類にサインをしていました。元気な頃から自分が病気などで駄目になる時は延命措置は決してしないでほしい、と言っていたのを私は良く知っているので、もう、だめか、と思ってしまいました。
すぐにチケットを手配しましたが、一番早く行ける便でも翌日の夕方の便でした。
ニッキィのスケートもやっとこれからエリート戦なども出て、スウェーデン全国選手権を控えていたので、トレーナーのターニャにも連絡をしました。
夜にはターニャも「こんな時間に電話して申し訳ないけれど、ニッキィの練習のためには私が迎えにいったり送っていったりできるから遠慮なく言ってほしい。」とまで言ってくれました。
自分も両親を亡くした経験があるからわかるけれど、人生はまだまだ続いていくのだから、強く受け止めすぎないように、子供もそして家族もいて、人生がまだまだ続いていくのだから、とも言われました。

26日の夕方の飛行機でフランクフルト経由で成田に到着して福岡、そして福岡から高速バスで熊本まで行きました。
私がついたのは27日、もう夜遅くなってから。。。
母は意外に元気そうで安心しました。
父の病状を受け止められないのか、事の重大さがわからないのか。。。

母は、私が2010年の夏にイヴとニッキィとで日本に行った際、ひょんなことからもう何年も前に亡くなっていた母の叔母のお見舞いにしばらく行っていない、なんて言い出したので、おかしいと思ったのでした。
庭仕事のこともいつも父がストックホルムに来た際にすべて庭仕事をしてくれていたのに、このごろ来てくれないから庭や植木がすごいことになっている、夫のよく手伝いにきてくれた友達のドブリも亡くなったし、などと話していると、ドブリも亡くなったの?などと、良く知っているはずのことなのに、まるで初めて知った様な言い方。。。
そのころデイサービスに行っていた父の方が、「しっかりしろよ、何言っているの?」などと笑っているくらいでした。
私は、その夏、田んぼのある道で転んでしまい、傷がなかなか治らず化膿したので、父と母のかかりつけの医者に見てもらっていました。そのとき母の様子を医師に説明し、心配していることを言いました。
ちょうど私たちが日本へ行く直前に母は街に買い物に行った際、エスカレーターから落ちて脚のすねをかなり切り、救急車で救急病院に運ばれたのでした。そのとき、頭もうったらしく、レントゲンなども撮ったけれど異常はなかったのでした。
でも、医師が内出血をして脳を圧迫している場合、たまに記憶が喪失する場合があるけれど、その出血を取り除けば元通りになるから、CTスキャンをとってみましょう、ということで、CTスキャンをとってもらいました。
しかし、何の内出血も見つけることができませんでした。
そこで、MRIをすることになりました。
すると、まだ初期段階ではあるけれど明らかにアルツハイマーの脳の萎縮が見られることが診断されました。
それで、母も介護保険の認定を受けることにして、父が入所するから一人暮らしになるし、父に会いにいくということも含めて、と母に話して、母もデイサービスを受けることができるようにしたのでした。
母は至って元気で、普段通り明るく人との関わりもとてもよく、他人が見たら、全く正常な元気なおばあさんという感じです。でも、一緒に生活するとやはり、つい先ほどの記憶が途絶えているのがわかり、同じことを何度も訊いたり、同じものを何度も買ったり、という感じでした。
でも、それがゆえ、父の病状が大変な状態であることをきちんと理解できないのか、それもそれでよかったのか、という感じでした。
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by obreykov | 2012-03-12 08:06 | 両親

父の病気

はじめは脳の収縮が見られるのでアルツハイマーだと診断された父でしたが、記憶がどうかすると私たちなどよりよほどしっかりしているので、おかしいなと思っていました。
あとで父の病気はPSP(進行性核上性麻痺)という10万人に数名というまれに見る病気だったことがわかりました。運動を司る脳の収縮が見られるために運動、および内蔵の運動機能が低下して、転倒しやすくなったり、うまくしゃべることができなくなったり、さらには誤嚥などが生じてくるという難病でした。
気位が高く、人の世話になることなどできない性格のまじめな父でしたから、あの当時の葛藤は相当なものだったのだろうと今にして思えば、気の毒でなりません。
転倒が多くなり、お風呂場から出てくることができなくなった時は細い父でしたが、さすがの母も助けるのがとても困難で、これでは心配だということでかかりつけの先生がケアマネージャーと相談して要介護の申請をしてくれました。
人に頼ることが嫌いで、人に頼られる様な人だったので、介護保険がもらえても果たしてデイサービスに通うようになってくれるだろうか、と私たちは心配しておりました。
ところが、とても喜んで第一日目が終わり、それからは週に3回デイサービスに通うようになったので、私たちはびっくりすると同時に母もゆっくりする時間ができたし、入浴を家出しなくて住むようになったのが何よりの助けでした。
毎年3ヶ月スウェーデンに来ていた父と母でした。どうかすると冬も夏も来たりしていたのですが、2006年仁木て、一緒にブルガリアに行ったのが父のヨーロッパ訪問の最後になってしまいました。
ブルガリアには3つマンションがあるのですが、その一つは父と母がいつでも使ってよいと夫が言って二人専用にしてあげたのに、結局は一夏しか使わずに終わってしまいました。
その年は、先代のゴールデンのミミともよく散歩をしていましたが、ゆっくりゆっくり歩いていたのを思い出すとあの頃から病気は始まっていたのかもしれません。
2007年の夏にはネディと謙は東京に行っており、その間1週間熊本にやってきました。私とイヴとニッキィは熊本へ行きましたが、そのときも今思えば出不精になっており、お祭りなども一緒に行こうともしませんでした。
きっとあの頃から身体も辛くなっていたのでしょう。
2008年には父もこちらには来ないというので、私たちはブルガリアに行きました。ネディだけが秋に熊本に行きました。そのときネディとぼした祭りなどに行ったり、映画を見に行ったりしたというので本当にびっくりしました。
そしてその年父がかわいがっていたミミちゃんも亡くなってしまったのでした。
2009年の始めには母が風邪をこじらせ肺炎を起こし、ほとんど死にかけていて私は急遽熊本に帰ったのでしたが、そのときの父を思い出すと、私の知っている父ではなくなっていた感じがして本当にびっくりする矢ら悲しくなるやらで、一人でお墓参りに行きながらお墓の前でわんわん泣いてしまったのを思い出します。
あの頃の父は自分でも身体のいうことがうまくきかなくなっている自分にどう対処してよいかわからず、きっともの凄い葛藤のなかにいたことだろうと思います。
母のお葬式かと覚悟していったけれどなんとか回復してくれて、本当によかったのですが、その頃から両親がすっかり歳をとってしまったのを自覚せざるを得なくなりました。
そして、毎年避暑をかねてきていた両親もこちらに来る元気がなくなったのか、私たちが日本へ行くようになりました。
そのころから父のデイサービスも始まりよく2010年に熊本に行った時はすっかりデイサービスに慣れていた父でした。転倒も多くなったので、何度びっくりしたことか知れませんが、イヴとニッキィは父にとっては自分が世話をしてあげる小さい孫と言う気持ちがあるのか、イヴもすっかり大きくなっているのに、イヴの手を借りたりしようとせず、その辺がやはり気位の高い人だ、と思いました。
秋になると父の転倒が頻度を増してきて、母一人ではとても大変な状況になってきて、少しずつショートステイというサービスを受けるようになりました。
母が一人になって心配でしたが、思ったより元気に過ごしていたし、何よりも父が家で転倒したりする心配が亡くなったのが何よりでした。
秋休みには謙を連れて2週間でしたが、熊本へ行きました。
すぐに父を迎えにいきました。
謙を見た時の父の喜んだ顔は今でも忘れられません。
父にとって初めての男の子で自分の名前をとった謙には特別の感情もあったでしょうし、大人になっている謙には心を開いて私や母には決して助けを求めなかったのに、謙には腕を借り、ベッドから起きるのも転倒した時に起こしてもらうにも、またトイレに行くにもベッド脇においてあるトイレに移動するにも謙の助けを借りてくれました。
謙も元々心の優しい子なので、それはよくしてくれました。私や母ができないことを彼がちゃんとしてくれたので、私は謙をどんなに頼もしく思ったことか。。。それは父にしても同様だったと思います。
私たちが熊本に行くと必ず行く近所の養鱒場の料亭に行きました。
そのとき初めておじいさんと孫が晩酌しました。
大酒飲みではなかったけれどお酒を嗜むのが好きな父に似て謙もアルコールには強いようで、二人楽しそうに飲んでいました。男の子が欲しかった父は、本当にうれしかっただろうと思います。
それが最初で最後の話が孫との晩酌となってしまいました。
そして、デイサービスのみつぐ苑で入所できるようになったので、11月から入所をすることになりました。
それも不思議なように父が承知して、入所する日も私や謙や母と一緒に家を出て、まるでどこかへでかけるがごとく、極自然に家を出て、そして2度と父の愛した父が建てた沢山の父の植木のある花園の家に戻ることはなかったのです。
翌2011年の夏にはぜひ父を家に戻してあげたくて、ほかの子は足手まといになるだけだろうと思って我慢してもらい謙と私だけで熊本に行きました。
でも、そのころの父の様子を一目見ただけで、家での生活は全く不可能だということがわかり、誰も父に戻ろうとも言わなかったし、また、父もそのことがよくわかっていて、「家に戻りたい」とは言わなかったのだと思います。
でもたどたどしくも私たちが「会いにきてくれるのが一番うれしい」「せっかく来てくれたのに何もしてあげられなくて申し訳ない」などと言っていました。
謙がパソコンを持っていき、昔のビデオを見せてあげると、それこそ20数年前にまだネディが赤ん坊の頃ストックホルムの島の別荘で数家族集まってザリガニパーティーをしている時、みんなで酔っぱらってそれぞれが歌を歌ったりして大騒ぎしているビデオなどうれしそうに見て歌の上手だった父が酔って「君が代」などを歌っているところなど2度も見ながら一緒に歌っていました。
もう一度、家に戻してあげたかったけれど、一度戻ったらよけい辛くなったかもしれないと思って、私もどうしてよいかわからない感じでした。
母は「よほど居心地がよいのか、帰りたいって言わないのよ。」など言っていましたが、私は父が自分の病状を知っていて家での生活はたとえ1日でもかなり困難であることをよく理解して帰りたいと言わないのだということがよくわかりました。
自分でできるだけ食事もとるようにしていたようですが、謙に手伝ってもらったりして車椅子も押してもらって、子供が生まれたとき父がどの子も私の従兄弟たちも含めて沐浴させ寝かしつけて遊ばせていたのに、今はその孫たちが父の世話をするのか。。。と思いました。
謙は私より一足先にスウェーデンに帰ったので、果たして私の手を借りるかと心配していましたが、謙がいないので、私にも車椅子を押させたり、靴を脱いだりはいたり、また食後手などをぬれタオルで福野を手伝わせてくれました。父は手が汚れているのがとても嫌いな人で、手が汚れるからといってあまりオレンジやぶどうなど食べるのが嫌だったくらいだったので、少しでも手がべたべたしているのが嫌な人だったのです。

ああ、でも私はこんな年になっても両親がいたし、4人の子供にも恵まれ、毎年両親も来てくれ、幸せだったと思わなくてはならないかもしれません。私の両親は今の私の歳にはもう、自分たちの両親はいなかったのですから。。。また、我が子も2歳で失っていたのですから。。。

これが2011年の夏でした。
そして11月25日に父が誤嚥性の肺炎になり、急遽入院したという知らせがあり、私はすぐに飛行機のチケットをとり日本へ向かいました。
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by obreykov | 2012-03-11 09:06 | 両親

新しい年を迎えて

新しい年を迎えて、もう雛祭りもおわりました。

こんなに、長い間書かなかったのは忙しかったばかりではありません。
この日記をつけ始めたのは、遠く日本にいる両親が、すきなときに、こちらの様子を垣間見る事が出来るようにと思って始めたのでした。
それなのに、その父は、12月14日この世を去っていきました。
パソコンなんて扱えない母が一人で見ることも出来ないこの日記をつける気分になれませんでした。
父が亡くなってから、不思議と父が、もっと傍にいる気がして、悲しく思わなかったのに、こうして書き始めると涙が込み上げて来るのは、どうしてだろう。
でも、子供たちにも祖父の最後を後々知っていてもらいたいので少しずつ書いていこうと思います。
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by obreykov | 2012-03-04 21:01 | 両親