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2012.12.20 おめでとうニッキィ、6連覇

昨年は父の亡くなったとき私は何も知らずに日本を後に、スウェーデンに戻り、翌日には既に南スウェーデンのマルメという街に行っていたニッキィを追って、フィギュアスウェーデン選手権の応援に駆けつけました。
一人で汽車に乗り、ぐったりと疲れているのに、なんだか眠ることもできずに、マルメに着きました。
ニッキィは膝の調子が良くなかったりしていたのに、その前2回ほどエリート戦で試合に臨むことができました。ジュニアのクラスにあがって初めてのシーズンだったので、はじめのウプサーラでの試合では3位に終わりました。
私が熊本に行っていた間のストックホルムでの試合では1位になったということだったので、もしかしてもしかしたら、うまくいくかも、と思いました。
天を仰ぐと、すぐそこに父がいる様な不思議な感覚がしました。49日も終わっていないので、まだその辺にいたのかもしれません。
父に、どうか、満足のいく滑走ができますように見守っていてね、と天を仰いで頼みました。
ニッキィのトレーナーはニッキィがきかないなら、父の死は言わない方が良いというので、私もあえて教えず、ニッキィも何故か父のことは訊こうともしませんでした。
そして、ショートもフリーもとても良い滑走ができて、結果的には何と優勝をすることができたのです。
優秀なジュニアの選手がいた中、優勝ができたなんて本当に夢のようでした。
私は本当に父が力を貸してくれて、最高の滑走ができるようにニッキィに力をくれたとしか思えませんでした。そのために、父が私をスウェーデンに戻したくて、最後の力を振り絞ってがんばって、私をニッキィのもとへ行かせたとしか思えませんでした。

さて、今年のニッキィもシーズン初めはまた、成長からか膝が痛くなったり、また、体調を崩して、せっかくのジュニアグランプリを棒に振ることになってしまいました。
エリート戦にさえ、出場ができず、マルメでの試合の前に、特別に試合としてカウントされないけれど、女子のエリート戦に特別に滑走させてもらうことになりました。
そのとき、点数だけは頂き、審判からも色々な助言を頂き、マルメの試合に臨みました。
マルメではニッキィより年上の優秀な選手もいたのですが、なんとか良い滑走ができ、上位にたっていました。
でも、マルクス選手はトリプルアクセルもプログラムに入れているので、もし、成功したら、油断をしていられません。ところが彼が病気とかで棄権になったので、何の心配もなく良い滑走をすることができました。
そのときの表彰台は三人ともお母さんが日本人だったのにはびっくりしました。

その後、ニッキィはスケート連盟からスウェーデン代表でドイツのNRW杯に出かけました。
今シーズン初めての国際大会で、学ぶこと沢山あったようでした。
飛行機が欠航になったりで大変な思いをして戻ってきました。そんな中準備が不十分でスウェーデン選手権に臨むこととなったのです。

さて、今年のスウェーデン選手権です。
ニッキィたちは12日の水曜日から飛行機でヴェクショーという街に出かけていきました。
トレーナーがアイスを見つけてくれて、練習をしてからでかけることになっていたのですが、ニッキィは学校で13時30分から18時までの全国統一試験があったため、練習に参加することができず、私たちが学校へ迎えにいきそのまま飛行場へ送っていきました。

私は翌日友人と汽車で応援に向かいました。
もちろん、今年も天の父に頼んだのはいうまでもありません。
ところが、ショートではジャンプもミスがあり、ニッキィらしくない滑走になってしまいました。
当然、点数ものびず、3位になってしまいました。
見ているみんなもあまりにニッキィらしくなかったので、どうしたのかとびっくりしていましたが、こんなこともありましょう。。。
私は、どのようにニッキィに会ってよいかわからず、ホテルに戻りました。
ニッキィの友達のお母さんが息子さんに電話するとニッキィも一緒だった様なので、少しは安心しました。
トレーナーがニッキィと話すからと私に言ってくれたので、私はすべてトレーナーに任せて、友人のお母さんと一緒に遅い夕食を食べました。
しばらくすると、その息子さんがトレーナーから電話があってニッキィは出て行ったということだったので、私たちはしばらくロビーでおしゃべりをして、夜も更けてきたので、それぞれの部屋に戻りました。
すると、ニッキィとトレーナーが私たちの部屋で何やら話していたので、私は失礼しようとしましたが、トレーナーが私も中に入って、とおっしゃるので、私もはいってみました。
案の定、ニッキィは自分の滑走に満足できなかった悔しさで、涙を浮かべておりました。
こんなニッキィを見ることはほとんどありません。
でも、トレーナーはある時は厳しく、またある時は優しく、そして、昔のプルシェンコやアプトの時代の試合の様子、大失敗した最終グループに入れなかったプルシェンコがフリーでとても良い滑走をして、逆転したこと、等等、いろいろな話をしてくれました。
最後に、気持ちを入れ替えて、サンドイッチを少し食べてゆっくり休んで明日のトレーニングにはもっと頭を上に向けて!と励ましてくれました。

翌日は早朝に公式練習があり、私はニッキィを見送ってからゆっくりホテルの朝食をとりました。
女子の応援に行きながら、次はいよいよ、ニッキィたちジュニアの番です。
3位だったニッキィは最終滑走グループの2番目です。
こんなにドキドキしたことはありません。
ニッキィが前日のことをひきずって、めためたにならなければ良いけれど。。。ただ、ちゃんと滑れますように、と天の父に頼みました。外に出て天を仰ぐとなんだか父を感じて、きっとうまく滑れるように力を貸してくれるだろうと思いました。

ビデオを持つ手がドキドキして震えます。友達がのどがからからにならないようにとのど飴をくれました。
3回転3回転が2回転3回転になってしまいましたが、なんとかジャンプを一つ一つこなしていっています。
スケーティングものびのびと良い調子のようでした。
拍手も聞こえてきます。
最後のジャンプとスピンと。。。
終わるとトレーナーが迎えに出てニッキィを抱きしめていました。
私たちはいつもニッキィが何位になるか、どんな点数が出るか、ということより、ニッキィのトレーナーがどれだけニッキィの滑走に満足しているかが一番気になるところです。
滅多に褒めないターニャがニッキィを抱きしめているのはうまく滑れたということだ、とほっとしました。
キッスアンドクライでは、何やらターニャが一生懸命コメントをしているようでした。
そしてびっくりする様な点がでて、大きな拍手が聞こえてきました。
でも、まだ二人の選手の滑走が控えています。

後の選手がどのように滑ったか正直目にはいらない気分でした。
次の選手の点数を見て、ああ、少なくとも2位になった、と思いました。
そして最終滑走の選手がほとんど3回転さえ飛ばずに調子が悪かったので、あれあれあれ、と思いました。でも、ショートで、ニッキィと8点ほど差があったので、どうなるかわかりません。
しかし、2位の選手と約7点の差を付けて、ニッキィが圧勝しました。

私は自分の耳を疑ってしまい、横にいる友人たちに「本当なの、本当なの?」と何度も訊いていました。
そして、初めてボロボロと涙がこぼれてきました。
クラブからサポートにきてくれていたもう一人のトレーナーもすぐ私のところにきてくれて、一緒にボロボロ涙をこぼして喜んでくれていました。

私は外に出て天を仰いで父にお礼を言いました。
きっと、簡単に勝たせてはくれなかったのも神様がニッキィに与えた試練だったのかも知れません。
ターニャはこれも本当に良かった、とおっしゃっていました。
おめでとう、ニッキィ。
本当にあのショートの後の立ち直りには私もびっくりしました。
よくやった!
今回の優勝は今までスウェーデン選手権で5回優勝しているけれど、一番重みのある6連覇でした。

そして、こうしてよい方向に導いてくれる良いトレーナーを持って本当に幸せなニッキィです。
おめでとうニッキィ!
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by obreykov | 2012-12-21 07:20 | フィギュアスケート

2011.12.14. さようならじっちゃ

2011年12月14日、これが私の父の命日になってしまいました。
今だに、父がいないのが信じられないのではありますが、もう、会うことも話すことも、またしかられることもなくなりました。
私が夜に爪を切ったから、父が言っていたように親の死に目にあえないぞ、と言うのが本当になってしまったのかしら。父は、強い人だったから、私に弱みを見せたくなかったのかしら。
私がスウェーデンに帰るのを待つかの様に、息を引き取ってしまいました。
最後はどんなに苦しかっただろうと思うと、本当にかわいそうでなりません。
何でもできる人だったから、人の世話になるくらいなら死んだ方がましだと言って、延命治療も何もいらないというサインまでしていた人だったから、最後はどんなに苦しかったろう、いやだったろうと思います。

私の子供たちはもちろん、従兄弟従姉妹たちまでもを生まれた時にはお風呂に入れて子供の面倒を見るのが本当に上手な人でした。

さようなら、じっちゃ。孫から「じっちゃ」と呼ばれていた父は私にとってももう、じっちゃという呼び名の方がピンとくるくらいです。世界一厳しく世界一優しい人でした。
今は、天からきっと私たちのことをいつも見守っていてくれるのだろうと確信しています。
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by obreykov | 2012-12-19 21:19 | 両親

2011.12.13. 父と最後の日

明日早朝はスウェーデンに帰らなくてはならないというこの日。父との面会もとりあえずは今回は最後の日と思って、父にも、一般病棟にうつって、少しずつでも回復に向かってよかったね、今度は孫たちも連れてくるからね、私は、いったんスウェーデンに戻るからね、ニッキィはスウェーデン選手権にもう出発しているから、私もスウェーデンに着いたらすぐに応援に駆けつけるのよ、うまくできるように応援してあげてね、等と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのでしょう。。。私も、あの時、本当にニッキィたち孫を連れてくるまで父が元気になっていると信じていたのでしょうか。今だに、あの時の自分がどんなだったのか何を考え、どう感じていたのか、わからなくなります。私の父に限っていなくなるなんてあり得ないとでも思っていたのでしょうか。

父とは会話もできないまま、でも、きっと私の声は聞こえていたのでしょう。涙を浮かべる時もありました。目を追って顔を動かす時もありました。
父の苦しげな声を聞くと、これ以上苦しめないで、と神様に祈っていました。完全に回復することがない病気を抱えていたのだから、覚悟はしていたはずなのに、私は父がいなくなるなんて考えても見ませんでした。

この日には、母も一緒に連れて行き、しばらくの別れを父としたのでした。母も私がいないと面会も行けません。母の弟夫婦に母がデイサービスのない日は面会ができるようにと頼んでおきました。

ちょうど、午後にみつぐ苑の先生ともう一人面会に来てくださいました。先生はここの国立病院の救命救急の医師であり、父の主治医である先生をよくご存じでした。この先生なら安心ですとおっしゃったので、私も本当に安心しました。
父の胸から水を取り出していましたが、その水に血も混じっていて、私は心配でした。医学のことは何もわからないから。。。みつぐ苑の先生もそれを見ていらっしゃいました。
今後の母のこと等も相談して、母があまり気落ちしていないことが何よりの救いだと話しました。

父としばしの別れをして、私たちは家に帰りました。

私は、翌日4時にはタクシーを呼んであったので、その日はもう寝ずに出発するつもりで、寝具も片付けてシーツ等洗濯しました。
荷造りをしていると、病院から父が危篤だと電話があり、母とタクシーで駆けつけました。
母の弟夫婦や父の兄嫁やその息子等も駆けつけてくれました。

私たちが到着すると父は少しもちなおして、危篤状態から少しだけ回復していました。
どうしたの、しっかりして!今からスウェーデンに戻って、今度は孫たちも連れてくるからそれまでにもう少し元気になっていてって言ったじゃない。と父に話しかけました。
どこまで聞こえていたのか、「あーあー」とさえ声を出すこともできました。

親戚のものは、スウェーデンに戻らずそのまま残った方が良いと言いました。それは父が危篤でいつ亡くなるかわからないから?
今までも危篤になったけれど、もちなおしたじゃない。一般病棟にうつれたじゃない。
色々な思いが頭の中をぐるぐると駆け巡り、本当に私はどうしたら良いのかわかりませんでした。
もちろん病院の先生もこうしなさい、とおっしゃれないのは当然のこと。でも、先生もいつどうなるか予想はできないとおっしゃります。
このまままた回復するかも、あるいは今日かも、明日かも、1ヶ月後かも、もっと先かも。。。
そんなこと神様だけがご存じなのです。

みんなは残るようにと言いましたが、夫と叔母だけは、とにかく一度予定通り戻って、それから改めてまたくれば良いと私の背中を押してくれました。
主治医と相談し、夜中の2時をタイムリミットとしてそれまで何も変化がなければ私にはもう連絡せず、そのままスウェーデンにいったん戻るということにし、もし、何か変化が起きたら、再び危篤状態になったら連絡をしてもらうということにして、私たちは家に戻りました。

もう一度、父にとりあえずのお別れをし、聞こえているか聞こえていないかわからないけれど、明日、いったんスウェーデンに戻って、ニッキィの応援をして、その後、またここに戻ってくるからねと言って別れました。
父の「あーあー」という声が聞こえている間はどうしても離れることができませんでしたが、少し落ち着いて眠る様な感じになった時に私と母は家に戻りました。

母も眠れないのか、私と一緒に起きていました。
私は荷造りの続きをして、時計とにらめっこで過ごしました。
1時半が過ぎ、2時になりました。
病院からは何も言ってきません。

私は父のクローゼットを開けました。
そこには父の洋服が整然と並んでいました。
父が好んで来ていたブレザーにすがって涙が出てきて、私は初めて、大泣きをしてしまいました。
ふと見ると、父が愛用していた、能面のなんといったか、ネクタイ変わりに首に下げていたものが目に入りました。
父は、飛行機が好きで、1年もたたないうちに、そろそろ飛行機に乗りたくなったなあといいながらスウェーデンに来るのが楽しみだったのに、あの、PSP進行性核上性麻痺という病気に冒されてから、スウェーデンに来ることができなくなってしまったのでした。
私はその能面を自分の首に下げ、父の変わりに連れて行こうと思いました。なんだか首に下げると父が一緒にいる様な気分になったのは本当に不思議でした。

そのまま、タクシーの来る4時になりました。
私はタクシーに乗り、母にはもう、二階の寝室に行って休むように言いました。母が部屋に入るのを確認して、私は父の建てた自慢の家を後に、熊本交通センターに行き、福岡空港への高速バスに乗りました。

福岡出発の前、家に電話しましたが、母は寝ているのか出てきません。叔母に電話しましたが、留守でした。そういえば叔父が毎週水曜日は通院していたんだったとおもい、成田に向かいました。

上空はよい天気で太陽が出ていて、私はふと、窓の外に何か気配を感じました。とても不思議な感覚でしたが、まるで、映画のスーパーマンがエンジンの壊れた機体を運びながら乗客が窓の外を見るとスーパーマンが飛行機とともに飛んでいるという場面が目に浮かぶ感じでした。
一生懸命外を見るけれど、スーパーマンなんて飛んでいないし、だれも外にいる訳ありません。
でも、私は、人の気配を感じたのでした。
あれは、今思うと、父の魂だったのでしょう。
父は私と一緒に、スウェーデンまで来ていたのでしょう。

成田について、電話をしてみるけれど、母はもう、みつぐ苑のデイサービスに出かけた時間。母の弟夫婦はきっと通院している病院へいるはずの時間。だから、私は、父の兄の家に電話をしました。従兄弟の奥さんがでて、「わあ、絵美子さん大変だったね。。。もう帰っているのね。。。」と言っていたのですが、それ以上はろくろく話しませんでした。
母の弟の携帯に電話してみて、ちょうど出たので、私は、父に万一のことがあったら、右の親指を上にして手を組んであげてね、と頼みました。
叔父はわかったわかったと言って、私はヨーロッパ便に乗りました。

夏のさわやかな日々、スウェーデンでは私たちはほとんど庭で食事をしていました。
特に子供たちが小さいころは父が庭先で本を読みながらプールで遊ぶ子供たちを見守っていてくれました。
そんなとき、手を組んでいたのを見て、右の親指が上になるように組んだり、反対に左が上になるように組んだりして、私は左が上にならないと気持ちが落ち着かないというと、父はその反対で、右が上でないと落ち着かないから自分が死んだ時は右上に組んでくれないと成仏できないから、覚えておいてくれ、と笑っていたのを思い出したからです。

そんな話をしたのに、叔父はわかったわかった、と言っただけで、道中の私に何もできなかったからしらせなかったのでしょう。でも、やはり、あの時私は父がもう駄目だったのを感じていたのだと思います。
家についてからも、母に電話するけれど、いないので、母の携帯に電話しました。
すると、ちょうど、火葬場から戻ってきたところだということでした。

私の父は、きっと、私に最後を見せたくなかったのでしょう。私にニッキィのもとへ行かせたかったのでしょう。だから、最後までがんばって、私をスウェーデンに帰したかったのでしょう。

父は私が高速バスに乗る頃、再び危篤状態になって、母の弟夫婦が母を迎えにいって病院に駆けつけ、6時6分にその生涯を終えたのでした。
私が飛行機の中で感じたのは、やっぱり父だったのです。
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by obreykov | 2012-12-19 21:10 | 両親

2011.12.12. 最後のショッピング

父が一般病棟に移ったことで、面会時間を気にせず会いにいけるようになりました。それに完治しないのはわかっていると入ってもとりあえず、ICUから出たということで安心したというか、安心したと自分に思い込ませて、私も家族から頼まれていたものを買いに行ったりできる気分になりました。
日本の薬や化粧品などは、前から愛用しているものがあるため、いろいろと買いに行きました。

葛根湯、正露丸、セデス、イブクイック、ビタミンC、ポカリスウェット、田舎味噌、麹、胡麻、などなどなどなど。

父は相変わらずですが、痰が詰まるらしく、それを取り除いてもらったりしているとき、私は病室から出ているのですが、苦しそうな声が聞こえるのはたまりませんでした。
でもそれをしないわけにもいかないし、とにかく苦しい思いを少しでも少なくしてほしいと願うのみでした。

母がアルツハイマーのおかげといったらおかしいのですが、父のそんな様子を目の当たりにしても、現実を把握できていないのか、あっけらかんとしているのが不思議でしたが、ある意味、母が現実を把握してくれていないのが助かる部分もありました。
母は、どこまでがどのようにアルツハイマーが進行しているのか、ついさっきの記憶は結構難しくなってきています。

母が私が帰った後一人で国立病院まで来てしまっても、病院内で父の居場所を果たして見つけることができるのか、それが心配で、決して一人では来ないでよ、と何度も行って聞かせました。

母が、夜遅くまで新聞を読んでどうかすると明け方までリビングで起きたままでいるのが本当に心配を通り越して頭にきてしまうときも多々あります。
新聞を読んでいたとは言うものの、こっくりこっくりと居眠りをしているようで、風邪を引かなければよいがとそれが心配です。
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by obreykov | 2012-12-14 21:52 | 両親

2011.12.11. 母と一緒に

母がデイサービスが休みの日だったので、二人で街に出かけ、お歳暮を贈りました。
日本はお中元お歳暮の習慣があるので、ある意味、よいと思いますが、ある意味、無駄なことだとも思いました。義理で贈らなくてはならない,いただいてもお返ししなくてはならない、いただいたものも必要ではない、などなど、結構無駄なこともあるように感じるのは私だけでしょうか。。。
よく父が、スウェーデンに来ていると冠婚葬祭の面倒なことをしなくてすむから助かると笑っていたのを思い出します。

母と街で昼ごはんを食べてから、時間にとらわれずに父の面会に行きました。
父は相変わらずでしたが、貧血があるとかで輸血をしていました。
大丈夫かな、とちょっと心配でしたが、一般病棟で普通の人工呼吸器で、と何か安心しようと努力している自分を感じました。

父が一般病棟へ移ったというとで、安心したのか、私自身もどっと疲れを感じました。気の緩みからか風邪も引きそうな気分になってきたので、あわててビタミンCを飲み、葛根湯をのみ、夕方は疲れてソファで眠ってしまいました。
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by obreykov | 2012-12-14 20:25 | 両親

2011.12.10.一般病棟へ

朝、叔父たちが迎えに来てくれて一緒に病院へ行きました。
信じられないことですが、なんと午後には一般病棟に移るということ。びっくりしてうれしくてその日は日本に来て初めてショッピングをするために叔父たちがユニクロに連れて行ってくれ、まったく食欲も何もなかったのですが、とても美味しい回転寿司にも連れて行ってくれました。
私は始めて、ショッピングをする気分になって子供たちや母や私の洋服などを買う気になりました。
今まではどこに行っても商品を見ても目に入らず、父のために必要なものを病院から言われたとおりのものを買うくらいしかできなかったのに、人間の心とは本当に不思議にできています。

あの日は本当にうれしいだけでしたが、いま、1年もたって考えて見れば、一般病棟へ写るということは必ずしも回復に向かっているから移ったということではなかったのだろうと思います。
普通の人工呼吸器になったのも必ずしもよい方向へ向かっていたからではなかったのでしょう。
でも、あのときの私は単純だったのか、そう願いたいという気持ちからか、喜んでいたのでした。回復するはずがないのがよくわかっていたのに、認めたくなかったのか、でも、父が少しでも楽になってきたのかと錯覚していたのか、いまだに自分でもよくわかりません。

とにかく私は本当にうれしくて、お寿司も美味しくいただき、初めて熊本で何かを美味しく食べたような気がしました。子供や夫へのプレセントとして日本の洋服も買い、気持ちがずいぶんと楽になりました。

3時ごろ病院へ行くとちょうど一般病棟へ移ろうとしているところで私も手伝うことができました。
担当医はそのまま同じ先生だったので、安心しました。
あとで知ったことでしたが、担当医は父がお世話になっいたみつぐ苑の診療所の先生もご存知で、とても優秀な救命救急の先生でした。
ドラマで見ていたような救命救急が現実に本当にあわただしい毎日を送っているのを目の当たりにしました。

父にもよかったねよかったねと連発して安心して夕方には家に帰りました。
もう、30分以内の決められた面会時間ではなく、いつでも父に会いにいけるようになりました。
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by obreykov | 2012-12-14 20:11 | 両親

2012.12.14.あれから1年

今日は父の祥月命日です。といっても時差があるので、昨晩22時6分に父は亡くなったことになります。
私は、去年と同様にニッキィのフィギュアスケートのスウェーデン選手権の応援のために今年はヴぇクショーという南スウェーデンに来ています。
昨年の試合のときはニッキィには父の死を知らせず、私は天を仰いで父にニッキィのこと守ってあげてね、と祈ったものでした。なんだかすぐそばに父を感じていました。あのころ、まだ天国まで行かずに私の頭の上のほうをうろうろとしていたのではないかと思います。すぐそばに父を感じていたから不思議です。日本からの飛行機の中でも、スーパーマンがエンジンを抱えて故障した飛行機と一緒に飛んでいたときのようにすぐそばに父を感じていたから不思議でした。

さて、今日は夜にジュニアのショートがあります。3年も膝の痛みや、あるときは別の怪我や病気で試合をドタキャンしたり、波乱万丈だったニッキィですが、こうして元気に試合に臨むことができつつあることを心から喜び感謝しています。

がんばれニッキィ!
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by obreykov | 2012-12-14 19:55 | 両親